第246話 「三つの偽荷と、先に外した名前」
――中身を確かめる前に、誰の物かを決めてはいけない――
三つの偽荷は、ほとんど同じ時刻に人前へ出されようとしていた。
幕府方へ十二梱。
内藤家へ八梱。
下京のお藤の仕事場へ二十梱。
どの荷にも、右下の欠けた水輪印が押されている。
止めれば、都合の悪い品を隠したと疑われる。
返せば、送り先への敬意がないと責められる。
人前で開ければ、中身が何であろうと《水輪》の品として噂が広がる。
「開けてもあかん。開けなくてもあかん。どうしたらええんや」
六助が頭を抱えた。
茶太郎は、下京から届いた文をもう一度読んだ。
『荷主は水輪と名乗る』
「名乗ってるだけなんだ」
「何が?」
「まだ、水輪の荷だって確かめられてない」
欠けた印は、すでに使われていない物だった。
荷を出した記録もない。
丹波の蚕は、まだ繭すら作っていない。
下京の仕事場にも、これほど多くの生糸を買った帳面はない。
「中身を見る前に、水輪の荷じゃないって知らせる」
「印が押されとるのに?」
「だから印を消すんじゃなくて、布で隠すんだよ。偽の印も証拠だから、削ったらだめ」
荷の水輪印を無地の布で覆う。
その上へ、《送り主確かめ中》という札を結ぶ。
誰の荷か決まっていない状態へ戻してから、人前で開く。
隠さない。
受け取らない。
水輪の名にも結びつけない。
「開けるなら、三か所とも同じ決まりで開ける」
茶太郎は続けた。
「一つだけ見たら、その荷が良いか悪いかしか分からない。三つを比べたら、違いが分かるかもしれない」
文は三方へ送られた。
荷を開く前に、外側を記録する。
梱の数。
縄の結び方。
印の欠け。
荷札の文字。
運んだ者の名と、受け取った時刻。
検分には、糸を扱える者を二人以上立ち会わせる。
開けた中身はすぐ混ぜず、梱ごとに分ける。
一部を証拠として残す。
荷運び人を盗人と決めつけない。
そして、最初の結果を聞く前に、三か所全てで検分を始める。
どこかの結果を知ってから、残る荷を入れ替えさせないためだった。
下京では、お藤と綾が仕事場へ戻った。
二人が並んで姿を見せると、集まった町人たちが口々に叫んだ。
「水輪の新しい糸やろ!」
「幕府の後ろ盾で、安う売るんやないのか!」
「丹波から土地を奪うた糸やいう噂もあるぞ!」
お藤は、荷の前へ立った。
「この荷は、うちらが頼んだ物やありません」
「ほな、何で水輪の印がある!」
「使わなくなった印を、盗んだ者がおります。せやから印は消さずに隠します。あとで誰が押したか確かめるためです」
「開けへんつもりか!」
「開けます」
お藤は答えた。
「ただし、水輪の品としてやない。送り主の分からん荷として、皆さんの前で確かめます」
綾が無地の布で欠け水輪印を覆った。
紫染めの布は使わない。
あれは綾とお藤を結ぶ大切な印であり、正体不明の荷へ付ける物ではなかった。
町役と二人の糸商人が立ち会い、最初の梱を開く。
上には、光沢のある生糸が整然と入っていた。
「上等やないか」
町人の一人が声を上げる。
だが綾は喜ばなかった。
「下まで見ます」
上等な糸を除けると、その下から重しに使った石と、短く切れた古糸が出てきた。
次の梱も同じ。
外から見えるところには良い糸。
内側には、売り物にならない糸屑と石。
「最初だけ見せて売るつもりやったんか」
お藤が言った。
もし水輪の品として売り出されれば、最初の買い手は上等な糸を得る。
後から買った者は、石と古糸をつかまされる。
水輪は人を集めるためだけに良い品を見せ、町人を騙したと言われただろう。
一方、幕府方へ届いた十二梱は、まったく違う中身だった。
全てが上等な生糸。
ただし、それぞれ太さも撚りも異なり、複数の産地から集められた物だった。
水輪が特別に良い品だけを選び、幕府へ贈ったように見える。
町人へ石を売り、幕府へ上等な糸を献上した。
二つの結果だけでも、十分な悪評になった。
そして内藤家へ届いた八梱には、湿り気を含んだ糸が詰められていた。
すぐに腐っているとは決めつけられない。
だが、このまま閉じておけば傷みやすい。
内藤家だけへ、保管に向かない品を送ったように見せる荷だった。
「三つとも違う……」
千代が届いた報告を並べた。
幕府へは、上等な糸。
下京へは、上だけ上等で、中は石と古糸。
内藤家へは、湿った糸。
同じ作り手が、同じ品として出した荷とは思えない。
「悪い糸を送る計画やなかったんや」
友照が言った。
「送る相手ごとに、違う怒りを作る計画やったんや」
幕府には、水輪が取り入ろうとしていると見せる。
内藤家には、軽んじられたと思わせる。
下京には、女衆と町人を騙したと思わせる。
三か所が自分の荷だけを見ていれば、それぞれ別の形で水輪を疑っただろう。
しかし三つの結果が《縁扉》へそろったことで、矛盾そのものが仕掛けの証になった。
「三つの荷を、別々に見せたかったんだ」
茶太郎が言った。
「だから、三つを一緒に比べたら困る」
検分の結果は隠されなかった。
誰が立ち会い、どの梱から何が出たか。
幕府方、内藤家、下京の三者が、それぞれの控えを持つ。
荷運び人も、錦屋からどんな指示を受けたか証言した。
偽荷を運んだ責任と、偽りを知らずに役目を果たした事実は、分けて扱われることになった。
下京の人だかりの後ろで、一人の男が静かに立ち去ろうとした。
綾は顔を知らない。
だがお藤は、その声を覚えていた。
「最初に『今すぐ開けろ』と叫んだん、あんたやな」
男の足が止まる。
振り返ったのは、錦屋利右衛門だった。
「人違いや」
「何度もうちの仕事場へ来た人を、間違えると思う?」
利右衛門は走り出した。
影猫衆は飛びかからない。
白灯が路地の先へ回り、短く鳴いて進む方向を知らせた。
「にゃっ!」
その声を聞いた町役と番人が、通りの出口で利右衛門を止めた。
刃物を持っている可能性があるため、町人たちは近づかない。
大人の役人が二人以上で身体を調べ、抵抗できないことを確かめてから拘束した。
利右衛門の懐には、三か所の検分結果を書き込むための紙があった。
幕府方の欄には、すでにこう書かれている。
『最上糸。水輪、将軍家へ取り入る』
下京の欄には、
『石入り。女衆、町人を欺く』
内藤家の欄には、
『湿り糸。内藤を軽んず』
検分が始まる前から、広める噂の言葉は決められていた。
さらに紙の裏には、利右衛門へ指示を出した文が貼られている。
『三方が互いを疑えば、丹波の道は閉じる。
幕府の面目は潰れ、内藤は退く。
糸の値は、再び京で決められる』
差出人の名はない。
代わりに、花押の一部だけが薄く残っていた。
日置雪は、その形を見て顔色を変えた。
「この花押……故郷で見たことがあります」
「誰のもの?」
茶太郎が尋ねる。
「内藤家と争う者の文に、似た形がありました」
似ているだけで、本人の命令とは決められない。
花押もまた、切り取って付け替えられた可能性がある。
だが、糸問屋の利を守るだけだった妨害が、丹波の勢力争いと結ばれた。
利右衛門を捕らえても、終わりではない。
その夜、丹波から緊急の青羽便が届いた。
『桑の苗を植えた三つの村で、一斉に水路が閉じられた。
水を戻す代わりに、幕府との縁を切れと言われている』
印と噂で失敗した者たちは、今度は村の水そのものを止めてきた。




