第245話 「青黒い糸と、三方へ出た偽荷」
――悪い品を混ぜるより、良い名を付ける方が信用は壊れやすい――
茶太郎たちが伏見へ戻ったのは、半次が捕らえられた翌日の昼だった。
六歳の茶太郎を急がせるために、夜道を歩かせることはしなかった。
丹波を朝に出て、決めていた宿で休み、護衛の大人たちと一緒に帰ってきた。
繕い所の門前では、千代と友照が待っていた。
「おかえり」
「ただいま。二人とも、けがしてへん?」
「してへん。白灯も無事や」
「にゃっ」
白灯は胸を張ったが、半次へ飛びかかったわけではない。
人が来たことを知らせ、屋根の上から見張っただけだった。
茶太郎は、空になった印箱と、戻されかけた欠け水輪印を見せてもらった。
「もう使えへんように削るん?」
友照が尋ねる。
「今すぐ削ったら、どの文に使われたか比べられなくなる」
千代が答えた。
欠け水輪印は証拠として、町役の立ち会いで別の箱へ封じられた。
触れる者。
開けた時刻。
確かめた者。
全てを帳面へ残す。
偽りに使われた物だからといって、すぐ壊してしまえば、かえって確かめる手掛かりを失う。
半次の銭包みから見つかった青黒い生糸は、綾とお藤が調べた。
「撚りは弱くない」
綾が指先で糸を確かめる。
「染めも悪ない。銭包みの目印にするには、上等すぎる糸や」
お藤が帳面を開いた。
「この糸を扱うてたんは、《錦屋利右衛門》やと思う」
錦屋は、京で生糸と古布を扱う問屋だった。
丹波から繭や生糸を買い、下京の織り手や上方の商人へ売る。
お藤の仕事場へも何度か現れたが、古布は値打ちがない、女だけの仕事場は長続きしないと言って、買いたたこうとしたという。
「桑畑から直接うちらへ糸が届いたら、錦屋は困るん?」
茶太郎が尋ねた。
「全部の糸問屋が困るわけやない」
お藤ははっきり答えた。
「糸を選び、保管し、必要な場所へ運ぶ仕事は要る。綾の糸かて、作っただけでは下京まで届かへん」
「ほな、錦屋だけが困るん?」
「今まで通り、値段も良し悪しも自分一人で決められへんようになる。それを困ると思うたんやろな」
糸問屋という仕事が悪いのではない。
道の途中にいる者が、作り手にも受け手にも何も知らせず、値と評判を一人で決められることが問題だった。
弥七と町役が京の錦屋を訪ねた。
茶太郎たち子どもは同行しない。
半次の仲間が残っている可能性がある場所へ、連れていくことはできなかった。
店の戸は開いていた。
だが、主人の利右衛門はいない。
奉公人も、帳場を預かる者も消えていた。
蔵には空の糸枠が並び、帳面を置く棚だけが不自然にきれいになっている。
「逃げたあとか」
町役が言った。
「いや、まだ何か残っとる」
弥七は、火鉢の灰が新しいことに気づいた。
灰の中には、焼け残った紙片がある。
子どもたちが触れてはならない物だが、町役の大人が火が消えていることを確かめ、金箸で拾い上げた。
紙には、三つの行き先が残っていた。
『一、幕府方御覧。
一、内藤家預かり。
一、下京女衆売り出し』
それぞれの下に、荷の数が書かれている。
十二梱。
八梱。
二十梱。
「もう出たあとや」
店の裏口には、荷車三台分の轍が残っていた。
利右衛門を捕らえるための証拠では、まだ足りない。
だが、三方へ出た荷をそのままにすることもできなかった。
幕府方へ届けば、水輪と内藤家が進めた新しい糸として披露される。
内藤家へ届けば、丹波の村から納められた試し糸として保管される。
下京で売られれば、お藤の女衆が作った品として町人の手へ渡る。
綾が育てた蚕は、まだ繭になっていない。
新しい生糸など、一本も完成していない。
「全部、偽物や」
お藤が言った。
「中身も悪い糸なの?」
茶太郎が尋ねる。
「見な分からへん。古い糸かもしれんし、別の土地の糸かもしれん。良い糸が入ってる可能性もある」
「良い糸なら、届けてもいい?」
「よくない」
綾が即答した。
「誰が、どこで、どんな約束で作ったか分からへん糸を、うちらの名で出したらあかん」
質の良し悪しだけではない。
名前を偽って売ることそのものが、作り手と買い手の双方を欺く。
利右衛門の狙いが粗悪品で水輪の評判を落とすことなら、糸は悪い方が都合よい。
だが、最初だけ上等な糸を見せ、後から悪い物を混ぜるつもりかもしれない。
今ここで中身を決めつけることはできなかった。
茶太郎は《縁扉》へ、三枚の荷札を掛けた。
幕府方。
内藤家。
下京。
「一つずつ追ったら、間に合わへん」
「ほな、どうする?」
六助が尋ねる。
「三つの場所へ、別々に知らせる」
幕府方へは、伏見にいる使番と青羽便。
内藤家へは、日置雪と丹波側の道を知る者。
下京へは、お藤の仕事場と葛女たち。
送る文には、荷を奪えとは書かなかった。
まず開けずに止める。
水輪の名で来ても、すぐ売らない。
荷を運んだ者を盗人と決めつけない。
出発した場所と、渡した者の姿を聞く。
欠け水輪印があるかを確かめる。
中身を調べるのは、糸を扱える者が到着してから。
「荷運びの人も、偽の注文やって知らんかもしれへんもんな」
「うん。捕まえようとして逃げられたら、荷も道も分からなくなる」
三方へ文が放たれた。
その直後、錦屋の近くで見張っていた茶丸が、一台の空荷車を見つけた。
「……ニャッ」
荷車には水輪の印が描かれていた。
だが、輪の右下が欠けている。
欠け水輪印と同じ形だった。
弥七たちは荷車を遠くから追い、鴨川近くの荷宿へ入ったことを確かめた。
影猫衆は中へ踏み込まない。
逃げ道を塞がず、出入りする者の数と向かった方角を知らせるだけだった。
荷宿から出てきたのは、錦屋利右衛門ではない。
幕府方の荷を扱う、正規の使番だった。
男は何も知らない顔で、新しい受取文を手にしている。
「次はどこへ行く?」
弥七が町役を通じて尋ねた。
「三つの荷が届いたと確かめたら、伏見へ戻れとの役目です」
「誰から受けた?」
「錦屋の主人からや。水輪と内藤家の頼みやと聞いとる」
また、本物の荷運び人が偽の役目に使われていた。
使番の受取文には、三方の荷が止められた場合の指示まで書かれている。
『荷を拒まれたときは、人前で封を切れ。
水輪の名を掲げ、中の糸を皆へ見せよ』
止められることも、利右衛門の計画のうちだった。
荷を開けば、何が入っていても騒ぎになる。
粗悪な糸なら、水輪が偽物を売ったことになる。
上等な糸なら、幕府と内藤家が女衆へ特別な品を流したと疑われる。
開けずに返せば、都合の悪い荷を隠したと噂される。
「どれを選んでも、悪く見えるようにしてる」
茶太郎は三枚の荷札を見つめた。
そのとき、最初の返事が下京から届いた。
『二十梱、仕事場の前に到着。
荷主は水輪と名乗る。
町人が集まり、今すぐ開けろと騒いでいる』
お藤は立ち上がった。
「私が行く」
綾も続く。
「糸を見るなら、私も要る」
だが二人が下京へ着くより先に、幕府方と内藤家からも同じ知らせが届いた。
三つの場所で、三つの偽荷が、ほとんど同時に人前へ運び出されようとしていた。




