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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第244話 「戻される水輪印と、空だった印箱」

 ――盗まれた物より、戻された物の方が危ないこともある――


『伏見。

 水輪の印を借りる。

 女衆の帳面は、丹波で見つかったことにする』


 おふじが持ち出した帳面から見つかった文は、三つの道を通って伏見へ送られた。


 青羽便あおばねびん

 丹波から下る使番。

 街道を歩く葛女かつらめたち。


 どれか一つが止められても、残りが届くようにした。

 最初の文を受け取ったのは、《伏見水輪・繕い所》に残っていた千代と友照だった。


「印箱を確かめる」


 千代が言うと、友照はすぐに大人の番人を呼んだ。

 二人だけで蔵へ入らない。

 印箱を開くところも、取り出すところも、二人以上で見届ける決まりになっていた。


 繕い所で使う水輪の印は、一つではない。

 直し終えた金物に使う印。

 洗って乾かした古布の包みに使う印。

 荷を預かったことを示す印。

 試し作りで、まだ売ってはいけない物へ使う印。


 それぞれ形の一部が違っている。


「今使う印は、そろうてる」


 番人が帳面と照らし合わせた。

 千代は箱の底を見た。


「古い印は?」


 欠けたり、割れたりして使わなくなった印は、別の小箱へ入れてある。

 もう役目がないからと、捨ててはいなかった。

 偽りに使われないよう、後で削って形を消す予定だった。


 ところが、その小箱だけが空になっている。


「いつからないんや?」


「昨日の夕方にはあったはずや」


 番人が答えた。


 なくなったのは、水輪の外輪に小さな割れがある印だった。

 押せば、輪の右下が途切れる。


「半次は、今使う印を盗みに来るんやない」


 友照が空箱を見つめた。


「もう持っていったあとや」


 千代は丹波からの文を読み返した。


『水輪の印を借りる』


「借りるいうことは、返すつもりなんや」


 偽の触書。

 黒い縄の注文書。

 女衆の帳面を移すための文。

 それらへ水輪の印を押したあと、印を繕い所へ戻す。


 やがて偽りが調べられたとき、使われた印が繕い所から見つかればどうなるか。


 幕府と内藤家を陥れたのは、水輪の者だった。

 丹波の土地を奪おうとしたのも、水輪だった。

 下京の女たちを病ませ、帳面を盗んだのも、水輪だった。


 そう見せることができる。


「盗まれたって騒いだらあかん」


 千代は言った。


「半次が戻しに来るなら、まだ印があると思わせる」


 繕い所は、いつも通り戸を開けた。

 ただし印箱のある蔵へは、大人の番人を増やす。

 子どもたちは日が暮れる前に、別の家へ移る。


 甚八じんぱちの鍛冶場にも事情を伝えたが、武器を持って待ち伏せることはしなかった。

 半次が一人とは限らない。

 火を放つ恐れもある。

 まず人を離し、逃げ道と消火の道を空ける。


 《先手札せんてふだ》の火の札と、近づくなという裏札が、通りの両端へ用意された。


 一方、丹波では茶太郎が伏見からの返事を待っていた。


「千代たち、大丈夫かな」


「大丈夫やと決めつけることも、危ないと決めつけることもできへん」


 お藤が答えた。


「せやから、返事を待ちながら、こっちでできることをする」


 お藤の帳面は一冊だけではなかった。


 働く者の名。

 賃銭。

 預かった古布。

 売った品。


 半次が知っているのは、そのうち人の出入りを記した一冊だけだった。

 お藤は残る帳面について、下京へ確かめの文を送った。


 あやは蚕の籠を見守る。

 日置雪へき・ゆきは、桑畑の約束を村人と読み直す。

 茶太郎は、帰り道で必要になる干し飯と味噌玉を数えた。


 伏見へ急いで戻るとしても、六歳の子どもが夜通し歩くことはできない。

 大人の護衛と、安全な道と、途中で休む場所が要る。


「今すぐ出発できないことも、先に数えておくんだ」


 茶太郎は荷札へ、必要な人数と食事の数を書いた。

 その夜、伏見には細い雨が降った。

 繕い所の裏手で、白灯あかりが耳を動かした。


「にゃ」


 塀の向こうから、土を踏む音がする。

 白灯は飛びかからなかった。

 開け放してあった物置の屋根へ上がり、決められた通り短く二度鳴いた。


「にゃっ、にゃっ」


 人が来たという知らせだった。


 大人の番人たちは、すぐには姿を見せない。

 一人の男が塀を越えた。

 顔の左に、小さな火傷の跡。

 腰には、黒い一本を撚った縄。


 男は周囲を見回し、印箱のある蔵へ向かった。

 手には、油紙で包んだ物を持っている。

 蔵の戸は閉まっていたが、錠は掛かっていなかった。


 男は音を立てずに入り、空の小箱を見つけた。

 油紙を開く。

 中から現れたのは、右下の欠けた水輪印だった。


 男が小箱へ戻そうとした、そのとき。


「その印、誰から預かった?」


 背後で甚八の声がした。

 男は振り返り、懐へ手を入れた。


 だが甚八は近づかない。

 蔵の外には、伏見の番人と町役が立っていた。

 逃げ道を完全には塞がず、刃物を抜かせない距離を保っている。


「捕まえるために斬り合う気はない」


 甚八が言った。


「印を床へ置いて、手を見せろ」


 男——伊勢屋の半次は、裏口へ目を向けた。

 そこだけ、人が立っていない。

 一歩踏み出したところで、白灯が屋根の上から鳴いた。


「にゃっ!」


 裏口の先には、誰もいなかった。

 代わりに太い縄が低く張られ、その向こうの通りには近づくなという札が出ている。


 半次を捕らえる罠ではない。

 夜道へ飛び出し、通りの者を巻き込ませないための境だった。


「猫まで使うんか」


 半次が吐き捨てる。


「白灯は、お前を捕まえへん」


 千代の声が、蔵の外から聞こえた。


「人がおるって知らせただけや」


 半次は懐から手を出した。

 握っていたのは刃物ではなく、火打石だった。


 床には乾いた紙も油もない。

 印箱の周りも、あらかじめ片づけられている。

 火をつける物を探している間に、町役の大人二人が入り、半次の手を押さえた。


 誰も刀を抜かなかった。

 半次が持っていた荷を調べると、偽の触書が六枚出てきた。

 どれにも、欠けた水輪印が押されている。


 さらに、丹波で見つかったことにする予定だった、お藤の帳面の写し。

 内藤家を名乗る黒縄の注文書。

 幕府方の役目人へ渡した偽の米取り立て命令。


 ばらばらに起きた妨害が、一つの荷の中へそろっていた。


「これを印と一緒に見つけさせるつもりやったんやな」


 友照が言った。

 半次は答えなかった。

 町役が名を尋ねても、伊勢屋の半次としか名乗らない。


「誰に頼まれた?」


「俺が一人でやった」


 だが、その言葉はすぐに崩れた。

 偽の文に使われている筆跡は三つ。

 紙の産地も二つ。

 摂津の空き蔵へ火をつけ、同じ頃に下京の札を替え、丹波の境杭を抜くことを、一人で行えるはずがない。


 千代は、半次の荷から出た銭包みに気づいた。

 表には何も書かれていない。

 しかし包みを開くと、銭の下に細い生糸が一本敷かれていた。


 白でも、紫でもない。

 光の加減で、青黒く見える糸だった。


 翌朝、その糸は丹波の綾へ送られた。

 綾は指先へ載せ、撚りと染まり方を確かめた。


「丹波の糸やない。下京でも作れへん」


「どこの糸?」


「京の上等な織物に使う、選り分けた生糸や。こんなんを銭包みの底へ入れるんは、糸を数える印にしとる者だけやろ」


 お藤は帳面をめくり、一つの名を指した。

 女たちが古布を売ろうとしたとき、何度も安値をつけてきた京の糸問屋。

 桑畑と下京の働き場が直接結ばれれば、最も困る者の名だった。


 だが、その名の横には、さらに小さく別の文字がある。


『幕府と内藤の縁を切れば、道は元へ戻る』


 妨害の目的は商いだけではなかった。

 糸問屋の後ろには、幕府と内藤家が丹波へ道を広げることを嫌う者がいた。


 水輪を陥れる罠は止めた。

 けれど半次を動かした本当の相手は、まだ京の奥に残っていた。


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『茶太郎がゆく』
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