第243話 「消えたお藤と、紫布の隠し文」
――昔の思い出は、偽造できない道しるべになる――
『お藤がいない。
仕事場の帳面も、一冊なくなっている。
戸口に黒い縄が結ばれていた』
下京から届いた文を読み終えた綾は、すぐに立ち上がった。
「下京へ行く」
「待って」
日置雪が止める。
「今から夜道へ出たらあかん。お藤さんが自分で出たのか、連れ去られたのかも分かってへん」
「せやけど——」
「急ぐなら、先に確かめます」
弥七は青羽便へ、三通の文を預けた。
一通は、お藤の仕事場。
一通は、下京の荷宿。
もう一通は、街道を歩く巫女たちへ。
お藤を見た者がいないか。
誰と一緒だったか。
帳面を持っていたか。
傷ついた様子はなかったか。
見つけても追い立てず、安全な場所から知らせてもらう。
茶丸たち影猫衆も、夜の知らない道へは放たれなかった。
匂いが残る下京ならともかく、丹波から闇雲に捜しても危険を増やすだけだった。
綾は落ち着かなげに蚕小屋と寄合所を往復した。
弱った蚕の世話を放り出すこともできない。
別の者へ任せきることもできなかった。
「私がここにおる間に、お藤に何かあったら……」
「綾さんが下京へ走ってる間に、蚕に何かあるかもしれないよ」
茶太郎の言葉に、綾の足が止まった。
「どっちも守りたいんや」
「うん。だから、綾さん一人が二つの場所へ行こうとしたらだめだと思う」
綾は唇を噛み、もう一度座った。
お藤を捜す者。
蚕を見守る者。
街道を確かめる者。
それぞれに違う人が動いている。
離れているからこそ、同時に守れるものもあった。
茶太郎は、お藤から返ってきた紫染めの布を手に取った。
もちろん、勝手に縫い目を解こうとはしない。
綾へ尋ねる。
「この文、ちょっと変じゃない?」
『桑の実を隠した場所は、井戸の裏やなく、お堂の石の下です』
「お藤さんは、どうして隠した場所をわざわざ書いたの?」
「昔のことを覚えてるって、知らせたかったんやろ」
「でも綾さんは、井戸の裏だと思ってたの?」
綾は首を傾げた。
「いや。最初から、お堂の石の下や」
「じゃあ、直す必要がないよ」
茶太郎は、布の不揃いな縫い目を指した。
綾が送った半分へ、お藤は続きを縫って返した。
だが、幼い頃の縫い方に似せながら、一か所だけ糸が重ねてある。
「ここ、こんな縫い方やった?」
「違う」
綾の表情が変わった。
「子どもの頃、秘密を隠したときだけ二度縫いにしてた」
紫の布は、ただの思い出の品ではなかった。
偽の文や印が出回っていることを知ったお藤が、本人にしか作れない印を使って返事を送ったのだ。
綾は雪と弥七の立ち会いのもと、二度縫いされた部分だけを慎重に解いた。
中から、細く折られた宿紙が出てくる。
『綾へ。
病んだ七人を仕事場へ紹介した口入れは、伊勢屋の半次。
七人に罪はない。
半次は水甕の場所と、帳面の置き場を知っていた。
賃銭を払った記録を持ち、丹波へ向かう。
表の街道は使わない。
お堂の石の下を通る』
「お堂の石の下……」
綾は村の古い絵図を広げた。
幼い二人が桑の実を隠したお堂は、すでに焼けて残っていない。
だが、その裏から山へ入る細道は今もある。
大きな石が道を覆い、下を人一人が通れることから、《堂石の下道》と呼ばれていた。
「お藤は、その道から丹波へ来るつもりや」
文を送った時点で、お藤は自分の周囲に半次へ通じる者がいるかもしれないと考えていた。
行き先を普通の文へ書けば、読まれる恐れがある。
だから綾との記憶へ道を隠した。
「帳面も盗まれたんやない」
雪が言った。
「お藤さんが持ち出したんや」
それでも安心はできなかった。
半次がお藤の動きに気づいていれば、堂石の下道で待ち伏せするかもしれない。
弥七は大人の使番を二手に分けた。
一方は、道の出口を遠くから見張る。
もう一方は、歩き巫女たちへ連絡し、下京側から来る者を確かめる。
誰も狭い道へ一斉に入らない。
逃げ道を塞いで、お藤まで追い詰めない。
「ぼくは?」
「ここで粥を作って待っとれ」
弥七の答えに、茶太郎は頷いた。
六歳の子どもが、待ち伏せの恐れがある山道へ入ることはできない。
茶太郎は、冷めても食べやすい麦粥を作った。
刻んだ干し茸と大根を煮て、少量の味噌で味を整える。
長く歩いた者へ、いきなり多く食べさせない。
まず水を飲めるか確かめ、少しずつ出すつもりだった。
夜明け前、堂石の下道から鈴の音が聞こえた。
一度。
間を置いて、二度。
歩き巫女が味方へ知らせる合図だった。
最初に姿を現したのは、葛女だった。
その後ろに、旅装の女が二人いる。
一人は下京の仕事場で古布を扱う女。
もう一人は、風呂敷包みを胸へ抱えたお藤だった。
「綾!」
「お藤!」
綾は駆け出しかけ、途中で足を止めた。
お藤がけがをしていないか。
後ろから誰か追ってきていないか。
大人たちの確認が終わるまで待つ。
やがて葛女が頷いた。
「道の後ろに怪しい者はおりません。途中の小屋で一度、黒縄を持つ男を見ましたが、こちらには気づいてへんようでした」
その言葉を聞いてから、綾とお藤はようやく抱き合った。
「遅い!」
「何年待たせたと思うてんの。あんたが下京へ来んからやろ!」
「手紙ぐらい普通に書け!」
「普通の手紙が読まれるかもしれへんかったんや!」
二人とも泣きながら怒っていた。
茶太郎は湯気の立つ粥を持ったまま、声を掛ける時を失った。
白灯が足元から、お藤を見上げる。
「にゃ」
「あら、あんたが白灯か」
お藤は涙を拭い、ようやく笑った。
「下京の子らから聞いてる。白いのに、影猫衆なんやてな」
お藤が持ってきた帳面には、仕事場で働く者の名と賃銭だけでなく、誰の紹介で働き始めたかが記されていた。
病んだ七人はいずれも、半次の紹介だった。
ただし、七人自身は夫や家を失い、本当に仕事を求めて来た者たちである。
半次に命じられて水甕を替えた者はいない。
「半次は、働く女を入れたかったんやない」
お藤が言った。
「自分が仕事場へ出入りできる理由を作りたかったんや。女衆を紹介するたび、様子を見に来てた」
帳面の最後には、半次へ支払われた口入れの礼銭が記録されている。
受取印は毎回違った。
だが紙の裏へ、同じ小さな穴が二つずつ開けられていた。
「これは何?」
茶太郎が尋ねる。
「銭を渡したあと、半次が自分で開けてた。数を確かめる印やと思うてたんやけど……」
葛女が穴の間隔を見て言った。
「これは文を綴じた穴やありません。別の札を重ねて、針を通した跡です」
帳面へ薄い紙を重ねると、二つの穴がぴたりと合った。
紙には、半次が次に向かう場所が書かれている。
『伏見。
水輪の印を借りる。
女衆の帳面は、丹波で見つかったことにする』
半次は、お藤の帳面を盗みたかっただけではない。
丹波側が下京の働き場を支配し、女たちの賃銭を奪ったように見せるつもりだった。
そして次は、《伏見水輪・繕い所》の印を使おうとしている。
茶太郎たちが丹波へ来ている間に、半次はすでに伏見へ向かっていた。
狙われているのは、誰か一人の名ではない。
離れた土地と人を結んできた、《水輪》そのものの信用だった。




