第242話 「米を取り上げる役人と、抜かなかった刀」
――相手が本物でも、命令まで本物とは限らない――
「将軍家の命により、桑畑へ協力せぬ家の米を取り上げる!」
丹波の隣村へ現れた男たちは、六人いた。
二人は槍を持ち、三人は米を運ぶ荷車を引いている。
先頭の男は腰に刀を差し、幕府方の印がある文を掲げていた。
「逆らう者は、将軍家に背く者と見なす!」
村人たちは広場へ集められた。
すでに二軒の家から、米俵が運び出されている。
だが、村の若者たちは鍬を手にしながらも、役人へ襲いかからなかった。
前日に届けられた《先手札》が、庄屋の家にあったからだ。
子どもと動けない者を、広場から離す。
米蔵には鍵を掛ける。
命令を出した先へ、二つの道から確かめの使いを送る。
そして、確認が済むまで渡さない。
ただし、刀や槍を向けられても、自分たちから戦いを始めない。
「返事が来るまで、米は渡せません」
庄屋が答えた。
先頭の男の顔が赤くなる。
「この印が見えぬか!」
「印は見えます。せやけど、誰の家から、どれだけ取るかが書かれてへん」
「役目を妨げる気か!」
男が刀の柄へ手を掛けたとき、村の女が木を三度打ち鳴らした。
戦う合図ではない。
近づくなという、先手札の裏側の合図だった。
広場へ向かいかけていた村人たちは足を止め、道を空けた。
その道を、日置雪と内藤家に縁のある使者たちが進んできた。
弥七も同行している。
茶太郎たち子どもは、綾の村に残された。
武器を持つ者がいる場所へ、六歳の茶太郎を連れていく理由はなかった。
影猫衆では茶丸だけが、弥七の目の届く範囲で道の外を見張っていた。
「その刀、抜かんといてください」
雪が先頭の男へ呼び掛けた。
「村の者も、命令を確かめたいだけです」
「日置の家の者か」
男は雪を知っていた。
「ならば話が早い。この村は将軍家の桑育てに逆らった。米二十俵を取り立て、亀岡の蔵へ運べとの命だ」
「誰から命じられました?」
「奉行衆の使いを名乗る案内役からや。文も受け取った」
「その案内役は、今どこに?」
男が振り返る。
六人の中に、案内役はいなかった。
「夜明けまでは一緒やった。先に次の村へ知らせると……」
雪は、掲げられた文を下ろすよう求めた。
男はすぐには応じなかったが、内藤家の使者が自分の身分を示す割符を出すと、ようやく机へ置いた。
二通の文が並べられた。
一つは、男たちが持ってきた米の取り立て命令。
もう一つは、内藤家を通じて確認した幕府方の控え。
上半分は、ほとんど同じだった。
日付。
通る道。
役目人の名。
使われている印。
だが、下半分が違う。
本来の命令は、街道沿いの蔵に残る備蓄米の数を確かめるものだった。
飢えや火事が起きたとき、どこから米を動かせるか調べるための役目である。
村の米を取り上げるとは、どこにも書かれていない。
「そんなはずはない!」
先頭の男が二通を見比べる。
自分の文には、紙を継いだ跡があった。
米の数を調べる命令の下へ、取り上げるという文が足されていたのだ。
「役人まで偽物やないんか」
村の若者が呟いた。
「俺たちは、役目を受けてここへ来た!」
男は怒鳴ったが、その怒りは村人ではなく、自分へ偽の命令を渡した者へ向いていた。
腰の刀から、手が離れる。
槍を持つ二人も、穂先を地面へ向けた。
もし村人が先に襲いかかっていれば、役目人たちは身を守るために武器を使っただろう。
村人が傷つけば、幕府の役人が桑畑に反対する者を斬ったことになる。
役目人が傷つけば、丹波の村が将軍家へ反旗を翻したことになる。
どちらへ転んでも、幕府と村の間には深い傷が残った。
「それが狙いやったんか」
弥七が言った。
「偽物を本物らしく見せたんやない。本物の役目人へ、偽の役目をさせようとしたんや」
男たちは、運び出した二俵を元の家へ戻した。
封を切っていないことを家人と庄屋が確かめる。
米の量も、その場で数えた。
役目人たちの本来の仕事は、備蓄米を奪うことではない。
村ごとの備えを記録し、足りない場所を知ることだった。
「この村に残せる米と、飢えた村へ回せる米を、改めて一緒に数えてもらえますか」
雪が頼むと、庄屋はしばらく考えてから頷いた。
「命令の中身が本物やと確かめられるなら」
偽の文に使われた印は、本物の役目人が持つ印と同じだった。
だからこそ、文だけを見れば疑いにくい。
今後、備蓄を調べる者は、村へ到着した時刻と人数を記録する。
村は別の道から、命令を出した先へ確かめを送る。
数えた米の記録は、役目人と村の双方が持つ。
米を実際に動かす場合は、行き先の村からも返しの印を受ける。
調べる命令と、運ぶ命令を同じ文にしない。
茶太郎が作った《五路返し》と《先手札》が、離れた村でも使われ始めた。
一方、綾の村では、茶太郎が帰りを待ちながら夕餉を作っていた。
根菜を細かく刻み、麦と一緒に柔らかく煮る。
偽の命令で広場へ集められた者も、確認のため道を走った者も、戻れば腹を空かせている。
だが、茶太郎の目は何度も道の先へ向いた。
「心配なん?」
綾が尋ねる。
「うん」
「弥七さんらを信じてへんの?」
「信じてる。でも、信じたら心配しなくなるわけじゃないよ」
綾は少し考え、蚕の籠を見た。
「蚕も同じやな。新しい桑を食べ始めても、見張らんでええわけやない」
夜になり、弥七たちが戻った。
けが人はいない。
米も村へ返された。
その知らせを聞いて、茶太郎はようやく鍋の蓋を開けた。
湯気と大根の甘い香りが、寄合所へ広がる。
「抜かなくてよかったな」
六助が言った。
「何を?」
「役人の刀も、村の人の鍬も」
茶太郎は頷いた。
戦わずに済んだのは、相手を信じたからでも、疑ったからでもない。
確かめる時間を作り、その間に誰も手を出さなかったからだった。
食事のあと、役目人の一人が、消えた案内役について証言した。
「顔の左に、小さな火傷の跡があった。話し方は京の者に近い。黒い一本を撚った縄を、腰へ巻いとった」
「名は?」
「伊勢屋の半次と名乗った。せやけど、本名かどうかは分からん」
茶丸は、案内役が泊まった小屋の外で匂いを確かめた。
「……ニャッ」
残されていたのは、黒い藁縄の切れ端と、濡れた繭だった。
綾が繭を見て、眉を寄せる。
「うちの繭やない。下京から持ってきた古い繭殻や」
「下京?」
「糸を取ったあと、詰め物に使うため集める物や。お藤の仕事場にもあるはずや」
半次は丹波へ来る前、下京のお藤の仕事場へ立ち寄った可能性がある。
すぐに青羽便で注意を知らせる文が送られた。
しかし、下京から戻ってきた青鳩の脚には、お藤の返事ではなく、別の女が書いた短い文が結ばれていた。
『お藤がいない。
仕事場の帳面も、一冊なくなっている。
戸口に黒い縄が結ばれていた』
妨害を止められたと思ったその夜、今度は働き場を守っていたお藤自身が姿を消した。




