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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第241話 「将軍の印と、書かれていない命令」

 ――本物の印が、文の中身まで本物にするわけではない――


『丹波の桑畑は、将軍家の御用地とする』


 触書を読み上げた日置雪へき・ゆきに、村人たちの視線が集まった。


「やっぱり土地を取り上げる気やったんや!」


「桑を植えたら最後や!」


 声が大きくなる前に、あやが蚕小屋の戸を閉めた。


「言い争うなら、蚕から離れて」


 静かな声だったが、誰も逆らわなかった。

 弱った蚕の籠は、まだほかと分けてある。


 新しい桑の葉を食べ始めたものもいたが、動きの戻らないものもいた。

 原因を確かめる前に人が出入りすれば、別の異変まで持ち込むかもしれない。


 話し合いは村の寄合所で行われた。

 偽りと疑われる触書は、机の中央へ置く。


 子どもたちは触らない。

 日置雪と内藤家に縁のある使者、それに村の文書を扱う庄屋が、離れた場所から文面と印を確かめた。


 茶太郎は、使者が持参していた別の文に目を留めた。

 桑の苗を街道で通すことを認める文だった。


「こっちにも、同じ印がある」


「よう気づいたな」


 使者が二通を並べる。


 確かに、印の欠け方まで似ていた。


「ほら見ろ。印が同じなら、土地を取る文も本物や!」


 村人の一人が言った。

 だが茶太郎は、二通の文を交互に見た。


「同じ印は、同じことを決めるために使うの?」


「いや」


 使者が答えた。


「この印は、荷を運ぶ者が関所や番所へ示す通行の印や。土地の持ち主を変える印ではない」


「じゃあ、桑畑を将軍家の物にする印じゃないんだ」


「その通りや」


 幕府の命令で土地を召し上げるなら、誰が命を受け、誰が文を出したかを示す名と書き方が要る。


 土地の場所や境。

 現在の持ち主。

 いつから、何のために扱いを変えるのか。

 立ち会う者や、異議を申し立てる先。


 それらが何一つ書かれていない。

 あるのは、将軍家の御用地にするという一行と、荷を通すための印だけだった。


「立派に見える言葉と、本物らしい印を置いただけや」


 雪は触書を指した。


「この文には、土地を動かすために必要なことが書かれてへん」


 庄屋も頷く。


「紙もおかしい。上半分は古い。下の文だけ、あとから継いどる」


 明かりへ透かして見ると、紙の厚さが途中で変わっていた。

 折り目の位置も合わない。


 もとは、別の荷を通すために使われた文だった。

 印のある部分だけを残し、下へ新しい紙を継ぎ足したらしい。


「本物の印を盗んだんやなくて、本物の文を使い回したんか」


 弥七やしちが言った。


「捨てられた古文か、役目を終えた控えを手に入れたんやろ」


 悪い者が幕府の印を自由に押せるわけではない。

 それでも、使い終えた本物の一部があれば、知らない者を惑わせるには十分だった。

 茶太郎は、桑とこうぞの札を思い出した。


「また付け替えだ」


 桑の籠へ、楮の札。

 飲み水の甕へ、布洗い場の札。

 古い通行の文へ、土地を奪う言葉。


 どれも、印そのものを一から作ったのではない。

 正しい物から印だけを借りて、違う意味へ結び直していた。


「ほな、土地は取られへんのやな?」


 村の女が恐る恐る尋ねた。

 使者は安易に頷かなかった。


「この触書が偽りやということと、将来何も起きへんことは別や。せやから、今回の貸し借りは今回の約束として残す」


 桑畑にする土地は、村の家から綾たちが期限を決めて借りる。


 持ち主は変わらない。

 土地の年貢を誰が負担するかを明記する。

 桑を抜いたあとの畑の戻し方も決める。


 内藤家は村の所有権を受け取らない。

 幕府方の口添えは、苗と糸を運ぶ道を守るためだけに使う。


 約束は一枚の文へ集めなかった。


 土地を貸す家。

 綾たち養蚕の者。

 村の寄合。

 糸を受け取る下京のおふじ


 それぞれが同じ内容の控えを持つことになった。


「一枚奪われても、全部は変えられへんようにするんやな」


 村の古老が言った。


「うん。それに、印だけじゃなくて、中に何が書いてあるかを比べる」


 茶太郎の答えに、雪が付け加えた。


「幕府や内藤家の名があっても、分からん命令へすぐ従う必要はない。出した先へ確かめる道も、約束の中へ入れます」


 その日の午後、村人の立ち会いで、元の境へ杭が戻された。

 新しく掘られた偽の穴には土を入れ、上へ白い石を置く。


 穴を隠すためではない。

 ここに偽の境を作ろうとした者がいたことを、忘れないためだった。


 桑の苗も植え始められた。

 綾が植える場所を決め、大人たちが根を広げて土を戻す。

 子どもたちは苗へ触れず、植えた本数を木札に記した。


 茶太郎は作業場から離れた炊事場で、粟と干し大根の汁を作った。

 蚕に与える桑の葉は使わない。


 水も養蚕用とは別にし、鍋へ白布の印を結んだ。

 ただし、白布だけを信じず、炊事役二人が中身と置き場所を確かめた。


「何でも二人で見るんやな」


 六助が言った。


「一人が悪いって意味じゃないよ。一人だと、間違えても気づきにくいから」


 夕刻、青鳩が下京から戻ってきた。


 脚の文には、紫染めの布が添えられている。

 綾が送った不揃いな縫い目の続きに、もう半分の印が縫われていた。


『綾へ。

 桑の実を隠した場所は、井戸の裏やなく、お堂の石の下です。

 あのとき叱られたんは、あんたが私の分まで食べたからです。

 糸を待っています。

 けれど、急がせません。

 下京で働く場所を守って待っています。

 お藤』


 綾は文を読み終えると、目元を袖で拭った。


「食べたんは、お藤の方やったのに」


 口ではそう言いながら、紫の布を大切に畳む。


 作る者と受け取る者の縁は、偽の印では結べない記憶で確かめられた。

 しかし、喜べることばかりではなかった。

 夜の見回りを終えた綾が、弱った蚕の籠から戻ってきた。


「三つ、動かんようになった」


 全てを救うことはできなかった。

 食べ始めたからといって、元へ戻るとは限らなかった。


 綾は死んだ蚕を元気な籠へ戻さず、別の容器へ移して記録した。

 何を食べ、いつ動かなくなったか。

 失った数も隠さない。


「誰がこんなことを……」


 村の若者が黒い縄を睨んだ。

 弥七は、その怒りが誰かへ向く前に言った。


「縄を持っとる者を、片っ端から捕まえたらあかん。黒い一本を撚る仕事場も、使う荷衆もあるはずや」


 その言葉へ答えるように、摂津から新しい文が届いた。


『黒い一本を撚った縄は、幕府方の荷に使う目印として、近ごろ大量に買われている。

 注文主は内藤家を名乗った。

 代金は払われていない』


 偽りの触書だけではなかった。

 妨害に使った縄まで内藤家の注文に見せかけていた。

 何か起きるたび、疑いが幕府と内藤家へ戻るよう仕組まれている。


 雪は文を握りしめた。


「狙いは、桑畑だけやない」


 使者が重く頷く。


「幕府の助けを受けた者が災いを起こす。そう見せ続けて、幕府の顔へ泥を塗るつもりや」


 その夜、丹波の別の村で、幕府の印を掲げた男たちが現れた。

 彼らは村人を広場へ集め、こう告げた。


「将軍家の命により、桑畑へ協力せぬ家の米を取り上げる」


 今度は文だけではない。

 偽の命令を本物に見せるため、人まで動き始めていた。


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『茶太郎がゆく』
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