↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
PR
248/320

第240話 「食べなかった蚕と、付け替えられた印」

 ――毒が入っていなくても、目印を偽れば命は脅かせる――


「この葉、うちの桑やない」


 あやの声で、蚕小屋の空気が変わった。

 だが、誰も籠へ殺到しなかった。


「その籠には触らんといて!」


 綾は食べるのをやめた蚕の籠を、ほかの籠から離させた。

 運ぶのは蚕の扱いに慣れた大人だけ。

 使った箸や籠も、元気な蚕の道具とは分ける。


 茶太郎たち子どもと、茶丸たちは小屋の外へ出された。


「ぼくにも何かできる?」


「清い水を用意して。それと、ここへ誰も入れんよう知らせて」


 蚕へ水を飲ませるためではない。

 世話をする者が手を洗い、道具を清めるための水だった。


 茶太郎は村の大人に井戸を確かめてもらい、炊事用とは別の桶へ汲んでもらった。

 白灯あかりは小屋へ続く道に座り、人が近づけば鳴いて知らせる。


「にゃっ」


 影猫衆も中へは入らない。

 見張り、知らせるところまでだった。


 綾は、問題の葉を一枚だけ木の板へ載せた。

 元気な蚕が食べている桑の葉と並べる。


「形は似とる」


 日置雪へき・ゆきが言った。


「似てるから混ぜたんやろな」


 綾は葉の表面へ触れず、細い竹で裏返した。


「こっちは桑より裏がざらついとる。葉の付け根も違う。こうぞの若葉が混じってる」


「紙にする木?」


 茶太郎が尋ねる。


「そうや。楮そのものが悪いんやない。使う場所が違う」


 紙を作るなら役に立つ。

 だが、桑だけを食べて育つ蚕へ与えても、十分な餌にはならない。

 濡れて傷んだ桑の葉も混ざっていたため、蚕はほとんど口をつけなかった。


「毒なん?」


「まだ分からへん。せやから、毒やないとも決めへん」


 綾は答えた。


「この籠の蚕は別にして、元気な桑の葉へ替える。戻したからいうて、すぐ元の籠へは返さん。何日か食べ方と動きを見る」


 弱った蚕を霊の力で元気にすることはできない。

 新しい葉へ替えても、全てが持ち直す保証はない。

 できるのは、悪い餌を取り除き、広げず、変化を見守ることだけだった。


 葉を運んだ籠には、小さな木札が結ばれていた。

 表には桑の葉の絵。

 縁には、綾の仕事場を示す二つの切り込み。


「札は合うてる」


 村の男が言った。


「ほな、運んだ者が葉を間違えたんや」


「まだ決めたらあかん」


 茶太郎は、木札と籠を見比べた。


 縄だけが新しかった。

 綾が普段使うのは、使い古して柔らかくなった麻縄だという。

 ところが札を結んでいる縄には、黒く染めた一本が撚り込まれていた。


 境の杭の穴に落ちていた縄。

 摂津の空き蔵に残っていた縄。

 それと同じだった。


 弥七やしちが縄を布で包んで保管する。


「葉を運んだ者を呼んでくれ。責めるためやない。どこで籠を受け取ったか確かめる」


 呼ばれてきたのは、村の若い女だった。

 顔を青くし、何度も頭を下げる。


「私は、葉置き小屋から札の付いた籠を運んだだけです。中も確かめず……」


「札を信じたんやな」


 綾の声に責める響きはなかった。


「いつも通りやった?」


「はい。でも今日は、桑の籠が一番奥に置かれていました。入口には楮の籠があったはずです」


「札は?」


「どちらにも付いていました」


 皆で葉置き小屋を調べると、楮を入れていた籠には「紙に使う」という札が付いていた。

 だが、その縄も結び直されている。

 桑と楮の札が、そっくり入れ替えられていたのだ。


 葉を運んだ女は、目印に従った。

 札を描いた者も、籠を編んだ者も間違えていない。

 たった一人、札を付け替えた者だけが、誰にも姿を見せずに失敗を作れる。


「下京の水甕も同じかもしれへん」


 雪が言った。


 すぐに青羽便あおばねびんで問い合わせる文が送られた。

 飲み水の甕。

 古布を洗った水を入れる甕。

 それぞれの印と、印を結んでいた縄を残してもらう。


 返事が来るまで、茶太郎たちは蚕小屋の記録を作った。

 どの籠が、いつ、どの葉を食べたか。

 誰が葉を摘み、誰が置き、誰が運んだか。


 具合が悪くなったときだけではない。

 何も起きなかった籠も記す。


「元気な方まで書くん?」


 村の子が聞いた。


「比べるためだよ。悪くなったものだけ見ても、何が違ったか分からないから」


 綾は、さらに札の付け方を変えた。

 札一枚だけで中身を決めない。

 桑の籠そのものには、持ち手へ三つの窪みを刻む。


 楮の籠には、一本の横溝。

 葉を置く場所も離す。

 運ぶ前に、札と籠の刻みと葉の三つを、二人で確かめる。


「札を増やしたら、また付け替えられへん?」


 六助が尋ねた。


「付け替えられる」


 綾は認めた。


「せやから、札だけを信じへん。籠も、葉も、人の目も使う」


 夕方、問題の籠の蚕が、替えた桑の葉を少しずつ食べ始めた。


 綾は喜びの声を上げなかった。

 一頭ずつ動きを見て、食べた量を記す。


「戻った?」


 茶太郎が尋ねる。


「食べ始めた。それだけや」


 治ったと決めつけず、翌朝まで別の籠で見守ることになった。


 日が沈む頃、下京から返事が届いた。


『病の七人は快方へ向かう。

 飲み水の甕に、布洗い場の札が結ばれていた。

 洗い場の甕には、飲み水の札。

 どちらの縄にも、黒い一本あり』


 三か所の妨害が、四か所へ増えた。


 空き蔵の嘘。

 境杭の偽の穴。

 水甕の印。

 桑葉の札。


 壊された物は、ほとんどない。

 代わりに、正しい物と正しい物の場所が入れ替えられていた。


「敵は、毒を作れる人とは限らへんな」


 弥七が黒い縄を見つめた。


「人が目印を信じることを、よう知っとる者や」


 綾は、お藤へ送る予定だった紫染めの布をもう一度広げた。

 布の端には、幼い二人が縫った不揃いな印が残っている。


「これは、うちとお藤にしか分からへん」


「二人だけの印?」


「桑の実を隠した場所を、縫うて残したんや」


 茶太郎は、その不揃いな縫い目を見つめた。

 偽の札を作る者がいても、共有していない記憶までは写せない。


「お藤さんに、文だけじゃなくて、この印の続きを縫って返してもらおう」


 作る者と受け取る者が、それぞれ半分ずつ確かめる印。

 五路返しとは違う、新しい確かめ方になりそうだった。


 その夜、日置雪のもとへ内藤家に縁のある使者が到着した。

 使者が差し出したのは、幕府方の印が押された一通の触書だった。


『丹波の桑畑は、将軍家の御用地とする』


 雪は文面を読み終える前に言った。


「偽物です」


 しかし印だけは、偽物とは言い切れないほど精巧だった。

 妨害する者は、ついに幕府の名そのものを付け替えようとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
面白いと思っていただけたら、ぜひブックマークや評価(★)をお願いします!
『茶太郎がゆく』
style=
目次からブックマークをお願いします
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。