第239話 「桑の実の紫と、蚕の女王」
――良い糸は、急がせることからは生まれない――
丹波へ入った茶太郎たちを待っていたのは、歓迎の声ではなかった。
「桑の苗を持ち込むな!」
「畑を幕府へ渡す気か!」
村の入口に、十人ほどの百姓が集まっていた。
手にしているのは鍬や鋤だったが、振り上げる者はいない。
誰も戦いたいわけではなかった。
ただ、自分たちの土地を奪われるのではないかと怯えていた。
茶太郎は荷車から降りなかった。
六歳の子どもが前へ出て、怒る大人たちを説き伏せる場面ではない。
日置雪が村の者へ声を掛けた。
「苗を植える前に、土地の話を確かめます。内藤家へ渡すという取り決めはありません」
「口では何とでも言える!」
「ですから、昔の境と、抜かれた杭と、土地を貸すと決めた者を一緒に確かめます」
弥七も荷衆を止めた。
「話が決まるまで、苗は村へ入れへん。勝手に植える者もおらん」
桑の苗は、風通しのよい木陰へ移された。
根を乾かさないよう大人が濡れた藁で覆う。
茶太郎たち子どもは、重い苗束にも、農具にも触れなかった。
村の奥から、一人の少女が歩いてきた。
年は十五ほど。
髪を布で包み、袖を短くまとめている。
まだ幼さの残る顔立ちとは不釣り合いに、白く細い指には、糸を扱ってきた者特有の小さな傷がいくつもあった。
「綾です」
女は雪へ頭を下げ、それから茶太郎を見た。
「宇治から来た、料理をする子やね」
「うん。でも、今日は料理だけしに来たんじゃないよ」
「分かってる。せやけど、蚕に茶粥を食べさせようとは思わんといてな」
茶太郎が目を丸くすると、綾は初めて少し笑った。
「冗談や」
村の子どもたちも、くすくすと笑う。
張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩んだ。
綾は村外れの小屋へ一行を案内した。
中には浅い籠が並び、白い蚕が桑の葉を食べていた。
葉を噛む細かな音が、春の雨のように重なっている。
「これが全部、糸になるの?」
茶太郎が尋ねた。
「全部はならへん」
綾は即座に答えた。
「弱る蚕もいる。病む蚕もいる。繭を作れへんものもいる。良い繭を残して、次へつなぐ蚕も要る。糸が欲しいからいうて、全部を同じように急がせたらあかん」
綾は籠へ手を入れず、まず蚕の動きと食べ残した葉を見た。
次に、籠の下へ落ちたものを確かめる。
動きの鈍い蚕がいれば、素手であちこち触らず、専用の箸で別の籠へ移す。
元気なものと弱ったものを混ぜない。
古い葉を残さない。
湿らせすぎない。
籠を置く棚も、炊事場や寝床とは離してある。
「蚕は言葉を話さへん。せやけど、食べ方と眠り方で、だいたいのことは教えてくれる」
雪が茶太郎へ囁いた。
「この辺りでは、綾を《蚕の女王》と呼ぶ者もいる」
それを聞いた綾は、露骨に顔をしかめた。
「やめて。私が偉いみたいや」
「違うん?」
「偉いのは蚕や。私は死なせへんように見張ってるだけ」
茶丸が籠へ近づこうとすると、綾がすぐに片手を上げた。
「猫はここまで」
「……ニャ」
「毛と土を持ち込まんためや。あんたが嫌いなんやない」
茶丸は不満そうに座ったが、境の縄を越えなかった。
影猫衆の役目も、小屋の外を見張るところまでになった。
綾は、一枚の古い布を茶太郎たちへ見せた。
桑の実で染めたような、薄い紫の染みが残っている。
「お藤と子どもの頃に使うてた布や」
「下京のお藤さん?」
「うん。あの子の家も、昔は蚕を飼うてた。桑の実を潰して遊んで、二人そろって叱られた」
綾は紫の跡を親指で撫でた。
「京が焼けてからは、ほとんど会うてへん。下京で女衆の仕事場を手伝うようになったんも、あとで聞いた」
「お藤さんは、綾さんの糸を待ってるよ」
茶太郎が言うと、綾は首を横に振った。
「まだ糸は渡せへん」
「どうして?」
「土地の話が曖昧なまま桑を植えたら、私らが村の畑を奪うたことになる。そんな糸を、お藤に使わせたない」
綾が欲しいのは、桑畑だけではなかった。
誰の土地か。
何年借りるのか。
桑を抜いたあと、畑をどう戻すのか。
繭と糸の代金を、誰がどの割合で受け取るのか。
決めたことを、字の読めない者にも分かる形で残す。
そこまで整って初めて、長く続く仕事になる。
「良い糸を作れるだけじゃだめなんだね」
「糸が丈夫でも、約束が切れたら続かへんからな」
一行は、抜かれた境の杭を調べた。
杭そのものは、近くの藪へ隠されていた。
折られてはいない。
村の古老と土地を貸す家の者が立ち会い、昔の溝や石積みと照らし合わせて戻していく。
ところが三本目で、弥七が止めた。
「待ってくれ。この杭、元の穴と合わへん」
新しく掘られた穴は、本来の境より畑二枚分も外へ寄っていた。
その通りに杭を戻せば、桑畑にする土地が広がり、隣家の畑を取り込むことになる。
「土地を盗むために杭を抜いたんやない」
雪が低い声で言った。
「私たちが土地を盗んだように見せるためや」
桑の苗が届き、偽の穴へ杭を立てたあとなら、噂は事実のように見えただろう。
幕府の口添えを得た者が、内藤家の威を借りて村の土地を奪った。
そう言い立てる者が現れれば、誰も新しい仕事を信じなくなる。
茶太郎は、以前見つけた偽の枡を思い出した。
物を盗むためではなく、誰かを盗人に見せるための細工。
「同じだ……」
「何がや?」
「伊丹の種籾も、減らすための枡じゃなかった。悪いことをしたように見せるために置かれてた」
弥七は新しい穴の土を調べた。
掘られてから、まだ日が浅い。
穴の底には、細い藁縄の切れ端が落ちていた。
ただの縄ではない。
三本のうち一本だけが、黒く染められている。
「摂津の空き蔵にも、同じ縄が残ってたそうや」
使番が懐から証拠の縄を出した。
二本を並べると、撚り方も太さも同じだった。
三つの妨害が、初めて一本の糸で結ばれた。
綾は黒い藁縄を見つめたが、怯えた顔はしなかった。
「桑の苗は植える」
村人たちがざわめく。
「せやけど、今日やない。境と約束を直して、皆の前で確かめてからや」
村の古老が、ゆっくり頷いた。
「土地を奪わんという証を、どう残す?」
茶太郎は五路返しの割符と、先手札を思い浮かべた。
「紙だけに書かないようにしよう。村と、綾さんと、土地を貸す家で、同じ印を一つずつ持つんだ」
綾が続けた。
「お藤にも一つ送る。糸を受け取る人にも、どんな約束で作ったか知ってもらう」
作る者。
土地を貸す者。
受け取る者。
三つを別々の印で結ぶ。
その日のうちに桑は植えられなかった。
だが苗は失われず、土地も奪われなかった。
夕餉に、茶太郎は村の者へ桑の若葉を使わない麦団子汁を作った。
蚕の餌を、人が珍しがって取りすぎないためだった。
綾は一椀を食べ終えると、古い紫染めの布を細く裂いた。
半分を自分の手首へ結び、残りを文に添える。
『お藤へ。
桑の実で叱られた綾は、まだ蚕を飼っています。
今度は、叱られへん仕事を一緒にしよう』
文を運ぶ青鳩が飛び立った直後、蚕小屋から鋭い声が上がった。
「綾さん!」
一つの籠で、蚕が桑の葉を食べるのをやめていた。
綾は籠へ駆け寄ったが、すぐには触れない。
葉を見て、匂いを確かめ、顔色を変えた。
「この葉、うちの桑やない」
桑の苗だけではなかった。
すでに育っている蚕の餌にまで、誰かの手が伸びていた。




