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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第239話 「桑の実の紫と、蚕の女王」

 ――良い糸は、急がせることからは生まれない――


 丹波へ入った茶太郎たちを待っていたのは、歓迎の声ではなかった。


「桑の苗を持ち込むな!」


「畑を幕府へ渡す気か!」


 村の入口に、十人ほどの百姓が集まっていた。

 手にしているのは鍬や鋤だったが、振り上げる者はいない。


 誰も戦いたいわけではなかった。

 ただ、自分たちの土地を奪われるのではないかと怯えていた。


 茶太郎は荷車から降りなかった。

 六歳の子どもが前へ出て、怒る大人たちを説き伏せる場面ではない。


 日置雪へき・ゆきが村の者へ声を掛けた。


「苗を植える前に、土地の話を確かめます。内藤家へ渡すという取り決めはありません」


「口では何とでも言える!」


「ですから、昔の境と、抜かれた杭と、土地を貸すと決めた者を一緒に確かめます」


 弥七やしちも荷衆を止めた。


「話が決まるまで、苗は村へ入れへん。勝手に植える者もおらん」


 桑の苗は、風通しのよい木陰へ移された。

 根を乾かさないよう大人が濡れた藁で覆う。


 茶太郎たち子どもは、重い苗束にも、農具にも触れなかった。


 村の奥から、一人の少女が歩いてきた。

 年は十五ほど。

 髪を布で包み、袖を短くまとめている。

 まだ幼さの残る顔立ちとは不釣り合いに、白く細い指には、糸を扱ってきた者特有の小さな傷がいくつもあった。


あやです」


 女は雪へ頭を下げ、それから茶太郎を見た。


「宇治から来た、料理をする子やね」


「うん。でも、今日は料理だけしに来たんじゃないよ」


「分かってる。せやけど、蚕に茶粥を食べさせようとは思わんといてな」


 茶太郎が目を丸くすると、綾は初めて少し笑った。


「冗談や」


 村の子どもたちも、くすくすと笑う。

 張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩んだ。


 綾は村外れの小屋へ一行を案内した。

 中には浅い籠が並び、白い蚕が桑の葉を食べていた。

 葉を噛む細かな音が、春の雨のように重なっている。


「これが全部、糸になるの?」


 茶太郎が尋ねた。


「全部はならへん」


 綾は即座に答えた。


「弱る蚕もいる。病む蚕もいる。繭を作れへんものもいる。良い繭を残して、次へつなぐ蚕も要る。糸が欲しいからいうて、全部を同じように急がせたらあかん」


 綾は籠へ手を入れず、まず蚕の動きと食べ残した葉を見た。

 次に、籠の下へ落ちたものを確かめる。

 動きの鈍い蚕がいれば、素手であちこち触らず、専用の箸で別の籠へ移す。


 元気なものと弱ったものを混ぜない。

 古い葉を残さない。

 湿らせすぎない。

 籠を置く棚も、炊事場や寝床とは離してある。


「蚕は言葉を話さへん。せやけど、食べ方と眠り方で、だいたいのことは教えてくれる」


 雪が茶太郎へ囁いた。


「この辺りでは、綾を《蚕の女王》と呼ぶ者もいる」


 それを聞いた綾は、露骨に顔をしかめた。


「やめて。私が偉いみたいや」


「違うん?」


「偉いのは蚕や。私は死なせへんように見張ってるだけ」


 茶丸が籠へ近づこうとすると、綾がすぐに片手を上げた。


「猫はここまで」


「……ニャ」


「毛と土を持ち込まんためや。あんたが嫌いなんやない」


 茶丸は不満そうに座ったが、境の縄を越えなかった。

 影猫衆の役目も、小屋の外を見張るところまでになった。


 綾は、一枚の古い布を茶太郎たちへ見せた。

 桑の実で染めたような、薄い紫の染みが残っている。


「おふじと子どもの頃に使うてた布や」


「下京のお藤さん?」


「うん。あの子の家も、昔は蚕を飼うてた。桑の実を潰して遊んで、二人そろって叱られた」


 綾は紫の跡を親指で撫でた。


「京が焼けてからは、ほとんど会うてへん。下京で女衆の仕事場を手伝うようになったんも、あとで聞いた」


「お藤さんは、綾さんの糸を待ってるよ」


 茶太郎が言うと、綾は首を横に振った。


「まだ糸は渡せへん」


「どうして?」


「土地の話が曖昧なまま桑を植えたら、私らが村の畑を奪うたことになる。そんな糸を、お藤に使わせたない」


 綾が欲しいのは、桑畑だけではなかった。


 誰の土地か。

 何年借りるのか。

 桑を抜いたあと、畑をどう戻すのか。

 繭と糸の代金を、誰がどの割合で受け取るのか。

 決めたことを、字の読めない者にも分かる形で残す。

 そこまで整って初めて、長く続く仕事になる。


「良い糸を作れるだけじゃだめなんだね」


「糸が丈夫でも、約束が切れたら続かへんからな」


 一行は、抜かれた境の杭を調べた。


 杭そのものは、近くの藪へ隠されていた。

 折られてはいない。

 村の古老と土地を貸す家の者が立ち会い、昔の溝や石積みと照らし合わせて戻していく。


 ところが三本目で、弥七が止めた。


「待ってくれ。この杭、元の穴と合わへん」


 新しく掘られた穴は、本来の境より畑二枚分も外へ寄っていた。

 その通りに杭を戻せば、桑畑にする土地が広がり、隣家の畑を取り込むことになる。


「土地を盗むために杭を抜いたんやない」


 雪が低い声で言った。


「私たちが土地を盗んだように見せるためや」


 桑の苗が届き、偽の穴へ杭を立てたあとなら、噂は事実のように見えただろう。

 幕府の口添えを得た者が、内藤家の威を借りて村の土地を奪った。

 そう言い立てる者が現れれば、誰も新しい仕事を信じなくなる。


 茶太郎は、以前見つけた偽の枡を思い出した。

 物を盗むためではなく、誰かを盗人に見せるための細工。


「同じだ……」


「何がや?」


「伊丹の種籾も、減らすための枡じゃなかった。悪いことをしたように見せるために置かれてた」


 弥七は新しい穴の土を調べた。


 掘られてから、まだ日が浅い。

 穴の底には、細い藁縄の切れ端が落ちていた。


 ただの縄ではない。

 三本のうち一本だけが、黒く染められている。


「摂津の空き蔵にも、同じ縄が残ってたそうや」


 使番が懐から証拠の縄を出した。

 二本を並べると、撚り方も太さも同じだった。

 三つの妨害が、初めて一本の糸で結ばれた。


 綾は黒い藁縄を見つめたが、怯えた顔はしなかった。


「桑の苗は植える」


 村人たちがざわめく。


「せやけど、今日やない。境と約束を直して、皆の前で確かめてからや」


 村の古老が、ゆっくり頷いた。


「土地を奪わんという証を、どう残す?」


 茶太郎は五路返しの割符と、先手札を思い浮かべた。


「紙だけに書かないようにしよう。村と、綾さんと、土地を貸す家で、同じ印を一つずつ持つんだ」


 綾が続けた。


「お藤にも一つ送る。糸を受け取る人にも、どんな約束で作ったか知ってもらう」


 作る者。

 土地を貸す者。

 受け取る者。

 三つを別々の印で結ぶ。


 その日のうちに桑は植えられなかった。

 だが苗は失われず、土地も奪われなかった。


 夕餉に、茶太郎は村の者へ桑の若葉を使わない麦団子汁を作った。

 蚕の餌を、人が珍しがって取りすぎないためだった。


 綾は一椀を食べ終えると、古い紫染めの布を細く裂いた。

 半分を自分の手首へ結び、残りを文に添える。


『お藤へ。

 桑の実で叱られた綾は、まだ蚕を飼っています。

 今度は、叱られへん仕事を一緒にしよう』


 文を運ぶ青鳩が飛び立った直後、蚕小屋から鋭い声が上がった。


「綾さん!」


 一つの籠で、蚕が桑の葉を食べるのをやめていた。

 綾は籠へ駆け寄ったが、すぐには触れない。

 葉を見て、匂いを確かめ、顔色を変えた。


「この葉、うちの桑やない」


 桑の苗だけではなかった。

 すでに育っている蚕の餌にまで、誰かの手が伸びていた。


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『茶太郎がゆく』
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