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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第237話 「返事を待たない先手札」

 ――急いでよいことと、待たねばならないことを分ける――


 翌朝、《宇治水輪庵》の縁扉えんぴの前に、五枚の木札が並べられた。


 火。

 崩れた山。

 腹を押さえる人。

 折れた橋。

 正体の分からない粉。


 絵の形も、札の縁へ刻んだ切り込みも、それぞれ違う。


「字が読めへん人でも、暗いところでも分かるようにしたんや」


 千代が目を閉じ、指先だけで札を確かめた。


 火の札には、一つの尖った刻み。

 山崩れには、三つの山形。

 病には、丸い窪み。

 道の異変には、二本の横溝。

 分からない物には、大きな斜め傷。


 茶太郎は五枚を《先手札せんてふだ》と名づけた。


 知らせが遠くへ届く前に、その場の者が始めてよいことを示す札だった。

 火なら、子どもや動けない者を煙から遠ざけ、近くの大人へ知らせる。

 病なら、医師を呼び、清い水と寝床を用意する。

 道が崩れたなら、通行を止め、迂回路を知る者へ相談する。

 山の斜面に割れ目があれば、沢や崖下から離れる。


 正体の分からない粉や液なら、触らず、嗅がず、風下へ入らず、人を近づけない。

 だが、札には「してはいけないこと」も刻まれた。


 燃える家へ勝手に飛び込まない。

 崩れた土砂を子どもが掘らない。

 病人へ確かめていない薬を飲ませない。

 危ない橋を試しに渡らない。

 未知の粉を火へ入れない。


「助ける札なのに、止めることばかりやな」


 六助が言うと、弥七やしちは首を振った。


「危ないところへ人を増やさんのも、立派な助けや」


 小夜さよは少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた。

 彼女が犯したことの裁きは、まだ終わっていない。


 五鬼の欠片を盗み、偽りの文を作り、冬嗣ふゆつぐを傷つけた事実も消えない。

 それでも、遅れた知らせによって両親を失った経験は、聞くべきものとして残された。


 小夜は山崩れの札を手に取った。


「逃げる先を一つに決めたらあかん」


「どうして?」


「山道は、雨ごとに変わる。昨日安全やった高みが、今日は崩れるかもしれへん。札に道まで決めさせたら、かえって危ない」


 茶太郎は、書きかけていた「北へ逃げる」という文字を消した。


「じゃあ、その土地を知ってる大人が逃げ道を決める」


「それと、人数を数える者を一人置く。逃げたと思うてた人を探しに戻るんが、一番危ない」


 先手札へ、新しい印が加わった。

 人の顔を囲む、小さな輪。

 逃げた先で、誰がいるかを数える印だった。


 昼から、宇治の河原で試しの訓練が行われた。


 火事に見立てた赤い布を、空き小屋の軒へ結ぶ。

 木を三度打ち鳴らすと、近くの町人たちが一斉に駆けつけた。


 桶を持つ者。

 梯子を担ぐ者。

 何も持たずに様子を見に来た者。

 あっという間に、小屋の前の細道が人で塞がった。


「医師が通れへん!」


「水桶も運べんぞ!」


 訓練は始まってすぐに止められた。


 知らせは早く届いた。

 だが、届きすぎた知らせが道を塞いでしまった。


 友照が額の汗を拭う。


「来いという印だけやったら、みんな来てまう」


「来なくていい人へも、知らせないといけないんだ」


 茶太郎たちは、先手札の裏へ太い横棒を刻んだ。


 表を向ければ、助けが要る。

 裏を向ければ、近づかず道を空ける。


 さらに役目を分けた。


 火を消す者。

 人を離す者。

 道を空ける者。

 人数を数える者。

 水と食べ物を安全な場所へ運ぶ者。


 茶太郎に割り当てられたのは、最後の役目だった。


 大鍋で麦粥を作り、働いた者と避難した者へ配る。

 ただし、訓練の小屋から離れた炊事場を使い、煙が火事と間違われないよう、白い布を高く掲げた。


「料理の煙まで知らせに見えたら、また人が集まってしまうもんな」


 茶太郎が言うと、白灯あかりが白布の下で尻尾を振った。


「にゃ」


 二度目の訓練では、人は小屋へ殺到しなかった。

 道が空き、桶が通り、医師役の男もすぐに中へ入れた。

 ところが訓練が終わる前に、茶丸が東の茶畑へ顔を向けた。


「……ニャッ」


 少し遅れて、竹を打つ鋭い音が響く。


 三度。


 間を置いて、もう三度。


 訓練の合図ではない。

 山崩れの先手札を預かった茶農家からの知らせだった。


 昨夜の雨で、茶畑の上の斜面に長い割れ目が見つかったのだ。


「ぼくも行く」


 茶太郎が立ち上がると、弥七が肩へ手を置いた。


「現場はもう動いとる。ここで待て」


 青羽便あおばねびんが届くより先に、茶畑では近くの大人たちが働く者を高みへ移していた。

 子どもは畑へ入れない。

 斜面の下の道には縄を張る。


 人を数え、二人足りないことを確かめる。

 その二人も、別の畑から戻ってきたところを見つけられた。

 誰も割れ目へ近づかず、土地を知る者が迂回路を決めた。


 やがて小さな土崩れが起き、畑の端と道の一部を覆った。

 けれど、そこにはもう誰もいなかった。


 夕方、茶太郎は避難した者たちへ麦粥を運んだ。

 小夜は、斜面から十分に離れた場所で人数札を握っていた。


「間に合ったんやな」


「うん」


「五つを集めんでも?」


「うん。欠片が教えたんじゃない。その土地にいた人が、割れ目を見つけたんだよ」


 小夜は返す言葉を探すように、山を見上げた。

 茶太郎は、湯気の立つ椀を差し出した。


「返事を待たなくていいことはある。でも、一人で何でも決めていいわけじゃない」


「……難しいな」


「だから、札だけじゃ足りないんだと思う。使ったあと、どこで困ったかを返してもらわないと」


 その夜、《縁扉》には初めて、助けを求める文ではなく、助けたあとの記録が掛けられた。


『斜面に割れ目。

 先に二十三人を移した。

 けが人なし。

 東の道は通れず。

 人数を数える札が足りない』


 茶太郎は、その最後の一行へ丸を付けた。

 成功した札にも、直すところは残っている。


 そこへ二羽の青鳩が、ほとんど同時に舞い降りた。


 一羽は摂津から。

 もう一羽は下京から。


 片方の文には、火の印。

 もう片方には、病の印。


 離れた二つの場所で、返事を待たない救いが同時に始まろうとしていた。


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『茶太郎がゆく』
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