第236話 「紫紐の小夜と、間に合わなかった返事」
――間違った方法にも、始まりには消せない痛みがある――
北の五鬼守は、命を取り留めた。
名を冬嗣という。
腕に深い傷があったが、医師の手当てを受け、意識も戻っている。
傷のために熱が出る可能性があり、しばらく動かしてはならない。
欠片の行方を聞くのも、医師が許すまで待った。
三日目。
冬嗣は、枕元に座った善丸へ一人の名を告げた。
「小夜だ」
「知っている者か」
「姉の娘。北の道で育った」
紫紐の女は、五鬼守の印を盗み見た部外者ではなかった。
割符の作り方も。
欠片に白い石筋が入っていることも。
守り小屋へ入る道も知っていた。
「なぜ欠片を奪った」
「五つを集めるためだ」
冬嗣は目を閉じた。
「小夜は、分けて守ることを弱さやと思うてる」
◇
十年前、北の山で大きな崩れがあった。
雨が続き、谷沿いの道と家が土砂に埋まった。
北の五鬼守は、残る四つの道へ助けを求めた。
だが、一つの使いは増水した川を渡れなかった。
一羽の鳥は嵐で戻った。
別の道へ回した知らせが着いた頃には、三日が過ぎていた。
小夜の父と母は、その崩れで亡くなった。
「五つが一緒におれば、すぐ動けた」
幼い小夜は、何度もそう言ったという。
「欠片を揃えれば、役小角様の霊が目覚め、山の崩れを先に教えてくれる。人を助ける道も開いてくれる。玄斎は、そう小夜へ吹き込んだ」
玄斎は金銀の鉱脈を求めた。
小夜は、人を救う力を求めた。
望みは違う。
だが五つを一つへ集めるという目的だけが重なった。
「小夜が冬嗣さんを傷つけたの?」
茶太郎が尋ねる。
「欠片を持って出ようとした小夜を、冬嗣が止めた。押し合ううちに、壁に掛けていた刃が落ちたらしい」
「わざとじゃないの?」
「それも、まだ本人から聞いてへん」
弥七が答えた。
「わざとやなくても、傷つけたことはなくならん。せやけど、最初から殺すつもりやったと決めることもできへん」
小夜は欠片を持ったまま、宇治へ向かっている。
偽文には、五つを宇治へ集めよと書かれていた。
彼女が求めているのは逃げ道ではない。
茶太郎だった。
「ここへ来ると思う」
茶太郎は言った。
「ぼくが欠片の声を聞いたって、知ってるから」
「ほな、宇治から離すか?」
宗次が尋ねた。
茶太郎は白紙の帳面を開いた。
今すること。
あとですること。
ほかの人に頼むこと。
「逃げない。でも、一人では会わない」
話を聞く場所は、秘密基地にしなかった。
家族の住む家にも、欠片を保管する蔵にも近づけない。
宇治の町組が使う広い会所を選んだ。
出入口は二つ。
弥七と町組が周囲を確かめる。
危険な物を持っている場合は、子どもへ近づけない。
茶丸と白灯は、小夜を捕らえる役ではなく、別の者が隠れていないかを見張る。
小夜が来なければ、茶太郎から探しには行かない。
◇
翌日の昼、小夜は本当に現れた。
歩き巫女の衣。
右手には紫の紐。
腰の袋には、白い石筋の入った黒い欠片。
「一人か」
弥七が尋ねる。
「一人です」
「刃物は?」
小夜は小刀を一本差し出した。
葛女が衣と荷を確認する。
毒のある粉も、別の武器もない。
欠片は小夜自身に出させ、会所の中央に置いた箱へ入れた。
茶太郎との間には、大人たちが座る。
「そなたが、声を聞いた子か」
小夜は茶太郎を見た。
「集めるな。結べ。そう聞いたと」
「うん」
「ならば、私の考えも聞いてほしい」
小夜は、過去の山崩れを語った。
助けを求める使者が戻らなかったこと。
返事を待っている間に、父母のいた家が土砂へ消えたこと。
五つの守り手が別々の土地にいたため、誰もすぐ動かなかったこと。
「分けて守るという言葉は、助けが間に合わなかった者へ何を残す?」
小夜の声は震えていた。
「五つを集めれば、一人が全ての道を見られる。役小角様の力が戻れば、鳥や使者を待つ必要もない」
「欠片に、山崩れを止める力があるの?」
「古い書には、山を鎮め、道を開いたとある」
「それが、本当に石の力か確かめた?」
小夜は答えなかった。
役小角が山道を開いたという伝承。
五鬼が人を助けたという記録。
その中で、石の欠片だけが岩を動かし、崩れを止めたとは書かれていない。
「役小角様の霊が目覚めれば、できるかもしれない」
「できるかもしれないことで、冬嗣さんの欠片を取ったの?」
「冬嗣は聞こうとしなかった!」
「だから、偽物の文を作ったの?」
「正しいことでも、古い決まりを破らなければ誰も動かぬ!」
小夜が立ち上がりかけた。
弥七たちが身構える。
だが茶太郎は、責める言葉を急がなかった。
「小夜さんは、返事を待つのが怖いんだね」
その一言に、小夜の動きが止まった。
「待ってる間に、また誰かがいなくなると思うから」
「……分かったようなことを」
「分からないよ」
茶太郎は首を横に振った。
「ぼくは、お父さんとお母さんを山崩れで亡くしてない。小夜さんと同じ痛みは分からない」
小夜は唇を噛んだ。
「でも、間に合わなかったことを忘れなくていいと思う。忘れなくても、偽物の文で人を動かしていいことにはならない」
会所が静まり返った。
「集めたら、今度はその一か所が崩れたとき、全部なくなる」
茶太郎は続けた。
「一人が間違えたら、五つとも間違う。小夜さんの偽物の文で、本当に五つが宇治へ来てたら、欠片を奪いたい人には一番楽だったと思う」
「では、また返事を待てと言うのか!」
「待つ時間を短くする」
茶太郎は《縁扉》から外してきた札を見せた。
鳥が飛べない雨の日。
川を渡れない日。
夜に崩れが起きたとき。
今の五路返しでは、まだ遅い場合がある。
小夜のやり方は認めない。
だが、小夜が示した弱点は消さない。
「近くの村だけで最初に助けられることを決める。遠くの五鬼守の返事を待たなくても、命を守るために動ける人を増やす」
「勝手に動けば、間違う者も出る」
「だから、していいことを先に決める」
道から人を離す。
火を消す。
医師を呼ぶ。
子どもを危険な場所へ入れない。
水や食事を安全な場所へ運ぶ。
崩れた坑道へ、知らない者が入らないよう見張る。
それらは、五つの欠片の許しを待たなくても始められる。
兵を動かすこと。
土地を取り上げること。
誰かを犯人と決めること。
それらは、急ぎを理由に一人へ任せない。
「返事を待たずにできる救いと、返事を待たなあかん決め事を分けるんやな」
葛女が言った。
小夜は、箱の中の欠片を見つめた。
「それで、次は間に合うと言えるのか」
「言えない」
茶太郎は答えた。
「絶対に間に合うとは言えない。でも、間に合わなかったことを隠さず、次の道を増やすことはできる」
小夜は長い間、何も言わなかった。
やがて紫の紐を右手から外し、床へ置いた。
「欠片は返す」
だからといって、全てが許されたわけではない。
冬嗣を負傷させたこと。
割符を奪ったこと。
少年へ偽文を運ばせたこと。
それぞれを立会人の前で確かめる。
処分を決めるのは、茶太郎ではない。
「逃げません」
小夜は言った。
「ただし、五路返しが遅いことも、記録へ残してください」
「残すよ」
茶太郎は白紙の帳面へ書いた。
『小夜——欠片を返した。
偽文と奪った割符について、これから調べる。
五路返しは、急ぎの救援に遅れることがある』
良いことだけを書かなかった。
悪いことだけでも終わらせなかった。
間に合わなかった返事は、消すための過去ではない。
次に間に合わせるため、残しておかなければならない記録だった。
五つ目の欠片は取り戻された。
だが六歳の茶太郎が次に直すべきものは、石を守る箱ではない。
返事が届くまでの時間、そのものだった。




