第233話 「紫の糸と、北へ行かなかった茶太郎」
――手がかりは、行き先を示すために残されるとは限らない――
多田の坑道で見つかった紫の糸。
岩名の証言。
『北へ。丹波へ抜ける古い鉱石道』
茶太郎は、地図の多田から丹波へ太い線を引こうとした。
だが墨を付けた筆を、紙の上で止める。
「まだ、通ったって確かめてない」
茶太郎は筆先を拭い、太い線ではなく小さな点を並べた。
「その点は何や?」
かん太が尋ねる。
「行ったかもしれない道。確かめられたら、あとで線にする」
《縁扉》にも二種類の札を掛けた。
目で見たこと。
誰かから聞いたこと。
聞いた話が嘘だという意味ではない。
負傷した岩名が見聞きできた範囲と、すでに確かめられた事実を混ぜないためだった。
紫の糸は、組紐師の縁へ渡された。
粉の付いた黒布からは大人が糸だけを外し、きれいな紙へ包み直している。
縁も素手では扱わず、明るい場所で糸の撚りと色を見た。
「絹やない。麻やね」
「紫色の麻糸?」
「紫根で丁寧に染めた物とも違う。青と赤を重ねて、紫に見せてる」
縁が湿らせた白布へ糸の端を軽く押し当てると、薄い青と赤が別々に滲んだ。
「高い衣に使う糸ではない。荷の目印か、安い飾り紐やと思う」
「丹波で作られた物か分かる?」
「糸だけでは分からへん」
縁は即答しなかった。
「同じ染め方をする人は、京にも摂津にもおる。丹波の荷に付いてたから、丹波の糸とは限らんよ」
糸には、同じ長さのところへ二度、強く擦れた跡があった。
袋を縫った糸ではない。
荷へ結び、何度か付け外しした紐らしい。
「大事な物を運ぶ紐にしては、目立ちすぎる」
千代が言った。
「見つけてほしかったんかな」
「紫の糸を見た者が、丹波を疑うように」
茶太郎は、地図の点線を太くしなかった。
◇
青羽便は、三つの道へ知らせを送った。
丹波へ向かう鉱石道。
池田から山崎へ戻る西国街道。
猪名川から淀川へつながる舟の道。
アオバトが短い印を運び、その先を歩き巫女、商人、寺の使いが確かめる。
すぐに返事が来なくても、同じ文を何羽にも付けなかった。
鳥を無理に飛ばさず、戻った鳥には休みと水を与える。
詳しい聞き取りは、人が行った。
一日目。
丹波の入口から返事なし。
二日目。
山崎から白い輪の札。
『紫紐の荷、見ていない』
三日目。
池田から青い二結び。
『空の荷駄三頭、北へ通った』
「空?」
茶太郎は、伊丹から届いた記録と見比べた。
多田の坑道を出たとき、北へ向かった荷駄には袋が積まれていたという。
池田で見られた荷駄は空だった。
「途中で荷を下ろしたんや」
かん太が言う。
「うん。でも、何を運んでたのかな」
「欠片と、白い粉やろ?」
「黒い石の欠片は、人が一人で持てる大きさだよ。三頭の荷駄はいらない」
善丸が伊丹で見せた欠片は、両手へ収まるほどだった。
盗まれた物も同じくらいなら、懐や背負い袋へ隠せる。
目立つ荷駄と紫の紐は、追う者の目を北へ向けるためのものかもしれない。
茶太郎は《縁扉》の札を掛け替えた。
『北へ向かった荷駄——確認済み』
『欠片が北へ向かった——未確認』
同じ道を通ったからといって、同じ物を運んでいたとは限らない。
◇
四日目の夕方、亀岡の市から人の使いが到着した。
男は紫の紐を一本持っていた。
「鉱石道の脇へ捨てられていた荷袋から外した物です」
縁が比べると、多田の黒布に付いていた糸と撚り方が同じだった。
だが荷袋の中には石も粉もない。
代わりに、乾いた籾殻が数粒残っていた。
「伊丹から盗んだ種籾の袋か」
弥七が目を細める。
種籾を運んだ者と、五鬼の欠片を盗んだ者は別だと岩名は話していた。
それでも、同じ紫の紐を使っている。
別々の者が、同じところから紐や袋を渡されていた可能性がある。
「誰が、この荷袋を持ってきたか覚えてる人は?」
茶太郎が尋ねる。
使いは帳面を開いた。
「亀岡の馬借が見ています。三頭の荷駄を連れた男たちは、空袋を捨てたあと、さらに北へ向かったそうです」
「ほかに、道を離れた人はいなかった?」
「一人だけ」
男は答えた。
「山伏姿の男が、荷駄から離れています。小さな背負い箱を持ち、東へ戻ったと」
「東?」
「保津川沿いを進み、京へ戻る道です」
北へ向かう荷駄。
丹波を示す証言。
目立つ紫の紐。
その全てを残し、一人だけ反対へ進んだ者がいる。
茶太郎は、地図へ新しい点線を引いた。
亀岡から東へ。
京へ。
さらに舟を使えば、淀や伏見へ下ることもできる。
「欠片を持ってると決めるの?」
かん太が尋ねた。
「決めない。でも、その人がどこへ行ったかは調べたい」
茶太郎は、山伏姿の男の札を青羽便へ託した。
背負い箱。
紫紐。
東へ向かう。
アオバトだけでは、顔や声まで伝えられない。
街道の堂へ印を送り、詳しい姿は人の使いが追って届ける。
その夜、縁は紫の紐をもう一度調べていた。
端に、小さな銀色の粒が固まっている。
甚八が灯りへかざした。
「銀とは限らん。鉱石の欠片か、炉の滓かもしれへん」
「山伏姿の人が、鉱山にいたってこと?」
「それもまだ分からん」
分からないことは増えている。
けれど、間違った道へ走るよりはよかった。
茶太郎は帳面の頁を三つに分けた。
分かったこと。
まだ分からないこと。
次に確かめること。
夜半、宇治川の方角からシオが戻った。
脚には、赤い紐ではなく青い二結び。
急病や火事ではない。
だが、道と荷に異変がある。
木片には、舟の印と、背負い箱の印。
その下に『淀』と刻まれていた。
山伏姿の男は、丹波へ逃げていなかった。
五鬼の欠片を持っているかもしれない背負い箱は——宇治からほど近い淀の船着き場へ戻ってきていた。




