第232話 「白い粉と、入らなかった坑道」
――勇気があることと、危険へ入ることは同じではない――
《縁扉》に掛けられた、最初の赤い札。
『多田の古い坑道で、人が倒れた』
茶太郎は、その札を自分の旅支度へ結ばなかった。
代わりに、誰へ知らせるかを書き出した。
病人を診る医師。
坑道の空気と支柱を知る鉱夫。
鉱石や粉を見分ける職人。
道を守る伊丹氏。
五鬼守の善丸。
「甚八さんなら、鉱石のことも分かるかな」
茶太郎が尋ねると、伏見から来ていた甚八は首を横に振った。
「鍛冶屋は、運ばれてきた金を火にかける方や。山から掘り出す仕事は、坑夫に聞かなあかん」
「甚八さんでも、分からないことがあるの?」
「あるに決まっとる」
甚八は白い粉の付いた黒布を、閉じた箱の外から眺めた。
「見ただけで石灰や、鉛や、毒のある鉱石や言い切る奴がおったら、その方が危ない。似た色の粉はいくらでもある」
箱は子どもや動物から離したまま、鉱山を知る者へ渡す。
茶丸も白灯も、匂いを嗅がせなかった。
茶太郎は《縁扉》へ、四枚の役目札を掛けた。
『医師——倒れた者の状態を確認』
『鉱夫——坑口、風、支柱、抜け道を確認』
『伊丹衆——人を近づけず、道を守る』
『善丸——五鬼守と欠片の所在を確認』
自分の札には、こう書いた。
『宇治で知らせを受け、足りない物を送る』
◇
最初に多田へ着いたのは、伊丹から向かった家人たちだった。
坑道の近くには、三人の男が倒れていた。
二人は咳き込みながらも意識がある。
一人は自分で起き上がれない。
家人たちは坑道へ飛び込まず、まず三人を粉の舞わない風上へ移した。
着ていた上衣は、ほかの者の衣類と分ける。
顔や手に付いた粉は、きれいな水で静かに洗い流す。
医師が来るまで、勝手に薬や酒を飲ませない。
その知らせは、青羽便と馬を使う人の伝令に分けて送られた。
宇治へ届いた最初の木札には、三つの横線があった。
『倒れた者、三人。坑外へ移した』
茶太郎は《縁扉》の赤い札の横へ、その木札を掛けた。
まだ「助かった」とは書かない。
外へ移せたことと、身体が無事なことは同じではないからだ。
次に、多田の坑夫たちが現場へ着いた。
坑口の前には白い粉が薄く積もり、内部から冷たい風が吹いている。
若い家人が布で口を覆い、入ろうとした。
だが老坑夫が腕をつかんだ。
「布一枚で何の粉でも防げると思うな」
「中に人が残っているかもしれぬ!」
「せやからこそ、入った者まで倒れたらあかん」
老坑夫は、火のついた細い灯明を長い棒の先へ付け、坑口の外から空気の流れを見た。
炎は坑道の内側へ引かれず、外へ向かって大きく揺れる。
「奥から風が出とる。せやのに粉まで外へ来とるんは、どこかで大量に撒かれたか、風の道を変えられたかや」
古い絵図を調べると、山腹の上に空気を通す小さな竪穴があった。
だが土と板で塞がれている。
自然に崩れたのではない。
新しい縄で板を縛り、その上へ土をかぶせてあった。
「先に、あれを開ける」
坑夫たちは竪穴の周囲を確かめた。
崩れやすい場所へ一度に集まらない。
風下へ人を立たせない。
子どもも動物も近づけない。
板を外す者には腰縄を付け、離れた場所から二人が支える。
竪穴が開くと、坑口から流れ出ていた風が少しずつ弱まった。
坑道内の粉が落ち着くまで、さらに待つ。
救助は、急がないのではない。
助ける者を増やさないために、必要な順番を守っていた。
◇
宇治へ二通目の知らせが届いた。
『風穴、塞がれていた。人の手による疑い』
茶太郎は、白紙の帳面へ時刻と届けた人の名を書いた。
「誰が塞いだんやろ」
かん太が言う。
「まだ分からない」
「種籾を盗んだ人たちかな」
「それも、まだ決めない」
茶太郎はそう答えたが、心の中では多田へ行きたかった。
善丸の仲間は無事なのか。
役小角の欠片はどうなったのか。
自分の《霊性味覚》なら、何か分かるかもしれない。
だが、正体不明の粉が舞う坑道へ六歳の子が行っても、調べる者の仕事を増やすだけだった。
「待つの、しんどいな」
茶太郎がつぶやく。
千代は、《縁扉》の右側を示した。
そこには、返事を待つ札が並んでいる。
「待つだけやないよ。次の返事が来たとき、すぐ渡せるようにしてる」
茶太郎たちは、現場へ送る物を分けた。
飲み水。
食べるための麦と味噌。
洗うための水。
汚れた衣類や道具を入れる空箱。
それぞれに違う形の札を付け、飲み水と洗い水を混同しないようにする。
現場で料理をする者へは、粉の付いた場所から十分離れ、道具を共用しないよう文を添えた。
◇
風が落ち着いたあと、坑夫たちは坑道へ入った。
入る者は三人。
外で縄を持つ者が三人。
戻る時刻を先に決め、合図がなくても時間になれば引き返す。
伊丹の家人は先頭に立たなかった。
坑道の中では、剣の腕より道を知る者の判断が優先された。
奥の横穴で、一人の男が見つかった。
五鬼守の一人、岩名だった。
岩名は岩壁のくぼみへ身体を寄せ、口元を自分の衣で覆っていた。
意識はあったが、立ち上がれない。
坑夫たちは急に背負わず、呼びかけに反応できるか、手足を動かせるかを確かめる。
簡単な担架へ固定し、粉を巻き上げないようゆっくり運び出した。
坑口では医師が待っていた。
岩名は風上へ移され、呼吸と意識を診てもらう。
その場で助かったとは決めつけず、夜まで注意して様子を見ることになった。
だが、岩名が守っていた黒い石の欠片はなくなっていた。
保管場所の木箱は壊されている。
五つの刻みも、刃物で削り取られていた。
白い粉が入っていた袋には、商人の名も産地もない。
ただ、袋を縫った糸だけが鮮やかな紫色だった。
「この辺りの坑夫が使う糸やない」
老坑夫が言った。
「濡れても目立つよう、俺らは白か藁色を使う」
粉の袋。
塞がれた風穴。
持ち去られた五鬼の欠片。
別々に見えたものが、人の手によってつながり始めた。
◇
夜になって、宇治へ三通目の知らせが届いた。
『岩名、生存。医師が看る』
『守りの欠片、なし』
茶太郎は最初の札を、二つに分けた。
病人の札は、まだ赤いまま。
欠片の札は、道を調べる青い紐へ替える。
人を助ける仕事と、盗まれた物を追う仕事を混ぜないためだ。
「岩名さんが目を覚ましたら、欠片より先に身体のことを聞いて」
茶太郎は伝令へ頼んだ。
「誰が取ったかを、すぐ問い詰めたらあかんの?」
友照が尋ねる。
「話せる身体かどうか、先生に決めてもらう。欠片を急いで、岩名さんを悪くしたらだめだから」
翌朝、岩名は短い言葉を話せるまで回復した。
医師の許しを得て、善丸が一つだけ尋ねた。
「欠片を持ち去った者を見たか」
岩名は頷いた。
「顔は……見ていない」
息を整え、途切れながら続ける。
「紫の糸を付けた荷。種籾を運んだ男たちとは……別だ」
「どこへ向かった」
「北へ。丹波へ抜ける、古い鉱石道……」
それ以上は聞かなかった。
岩名は再び横になり、医師が休ませた。
紫の糸。
丹波へ続く鉱石道。
そして、人の欲に持ち去られた役小角の欠片。
《縁扉》の青い札は、宇治からさらに北へ、新しい道を開こうとしていた。
けれど茶太郎は、まだ旅支度を始めなかった。
「次は、丹波の道を知る人へ頼む」
自分が走り出す前に、必要な人へ知らせを渡す。
それが《縁扉》を作った、六歳の茶太郎の最初の約束だった。




