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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第232話 「白い粉と、入らなかった坑道」

 ――勇気があることと、危険へ入ることは同じではない――


 《縁扉》に掛けられた、最初の赤い札。


『多田の古い坑道で、人が倒れた』


 茶太郎は、その札を自分の旅支度へ結ばなかった。

 代わりに、誰へ知らせるかを書き出した。


 病人を診る医師。

 坑道の空気と支柱を知る鉱夫。

 鉱石や粉を見分ける職人。

 道を守る伊丹氏。

 五鬼守の善丸。


「甚八さんなら、鉱石のことも分かるかな」


 茶太郎が尋ねると、伏見から来ていた甚八じんぱちは首を横に振った。


「鍛冶屋は、運ばれてきた金を火にかける方や。山から掘り出す仕事は、坑夫に聞かなあかん」


「甚八さんでも、分からないことがあるの?」


「あるに決まっとる」


 甚八は白い粉の付いた黒布を、閉じた箱の外から眺めた。


「見ただけで石灰や、鉛や、毒のある鉱石や言い切る奴がおったら、その方が危ない。似た色の粉はいくらでもある」


 箱は子どもや動物から離したまま、鉱山を知る者へ渡す。

 茶丸も白灯あかりも、匂いを嗅がせなかった。


 茶太郎は《縁扉》へ、四枚の役目札を掛けた。


『医師——倒れた者の状態を確認』

『鉱夫——坑口、風、支柱、抜け道を確認』

『伊丹衆——人を近づけず、道を守る』

『善丸——五鬼守と欠片の所在を確認』


 自分の札には、こう書いた。


『宇治で知らせを受け、足りない物を送る』


 ◇


 最初に多田へ着いたのは、伊丹から向かった家人たちだった。

 坑道の近くには、三人の男が倒れていた。


 二人は咳き込みながらも意識がある。

 一人は自分で起き上がれない。


 家人たちは坑道へ飛び込まず、まず三人を粉の舞わない風上へ移した。

 着ていた上衣は、ほかの者の衣類と分ける。

 顔や手に付いた粉は、きれいな水で静かに洗い流す。

 医師が来るまで、勝手に薬や酒を飲ませない。


 その知らせは、青羽便と馬を使う人の伝令に分けて送られた。

 宇治へ届いた最初の木札には、三つの横線があった。


『倒れた者、三人。坑外へ移した』


 茶太郎は《縁扉》の赤い札の横へ、その木札を掛けた。


 まだ「助かった」とは書かない。

 外へ移せたことと、身体が無事なことは同じではないからだ。


 次に、多田の坑夫たちが現場へ着いた。

 坑口の前には白い粉が薄く積もり、内部から冷たい風が吹いている。

 若い家人が布で口を覆い、入ろうとした。


 だが老坑夫が腕をつかんだ。


「布一枚で何の粉でも防げると思うな」


「中に人が残っているかもしれぬ!」


「せやからこそ、入った者まで倒れたらあかん」


 老坑夫は、火のついた細い灯明を長い棒の先へ付け、坑口の外から空気の流れを見た。


 炎は坑道の内側へ引かれず、外へ向かって大きく揺れる。


「奥から風が出とる。せやのに粉まで外へ来とるんは、どこかで大量に撒かれたか、風の道を変えられたかや」


 古い絵図を調べると、山腹の上に空気を通す小さな竪穴があった。

 だが土と板で塞がれている。

 自然に崩れたのではない。

 新しい縄で板を縛り、その上へ土をかぶせてあった。


「先に、あれを開ける」


 坑夫たちは竪穴の周囲を確かめた。

 崩れやすい場所へ一度に集まらない。

 風下へ人を立たせない。

 子どもも動物も近づけない。


 板を外す者には腰縄を付け、離れた場所から二人が支える。

 竪穴が開くと、坑口から流れ出ていた風が少しずつ弱まった。

 坑道内の粉が落ち着くまで、さらに待つ。


 救助は、急がないのではない。

 助ける者を増やさないために、必要な順番を守っていた。


 ◇


 宇治へ二通目の知らせが届いた。


『風穴、塞がれていた。人の手による疑い』


 茶太郎は、白紙の帳面へ時刻と届けた人の名を書いた。


「誰が塞いだんやろ」


 かん太が言う。


「まだ分からない」


「種籾を盗んだ人たちかな」


「それも、まだ決めない」


 茶太郎はそう答えたが、心の中では多田へ行きたかった。

 善丸の仲間は無事なのか。

 役小角えんの・おづぬの欠片はどうなったのか。

 自分の《霊性味覚》なら、何か分かるかもしれない。


 だが、正体不明の粉が舞う坑道へ六歳の子が行っても、調べる者の仕事を増やすだけだった。


「待つの、しんどいな」


 茶太郎がつぶやく。


 千代は、《縁扉》の右側を示した。

 そこには、返事を待つ札が並んでいる。


「待つだけやないよ。次の返事が来たとき、すぐ渡せるようにしてる」


 茶太郎たちは、現場へ送る物を分けた。


 飲み水。

 食べるための麦と味噌。

 洗うための水。

 汚れた衣類や道具を入れる空箱。


 それぞれに違う形の札を付け、飲み水と洗い水を混同しないようにする。

 現場で料理をする者へは、粉の付いた場所から十分離れ、道具を共用しないよう文を添えた。


 ◇


 風が落ち着いたあと、坑夫たちは坑道へ入った。


 入る者は三人。

 外で縄を持つ者が三人。

 戻る時刻を先に決め、合図がなくても時間になれば引き返す。


 伊丹の家人は先頭に立たなかった。

 坑道の中では、剣の腕より道を知る者の判断が優先された。


 奥の横穴で、一人の男が見つかった。

 五鬼守の一人、岩名いわなだった。

 岩名は岩壁のくぼみへ身体を寄せ、口元を自分の衣で覆っていた。

 意識はあったが、立ち上がれない。


 坑夫たちは急に背負わず、呼びかけに反応できるか、手足を動かせるかを確かめる。

 簡単な担架へ固定し、粉を巻き上げないようゆっくり運び出した。


 坑口では医師が待っていた。

 岩名は風上へ移され、呼吸と意識を診てもらう。

 その場で助かったとは決めつけず、夜まで注意して様子を見ることになった。


 だが、岩名が守っていた黒い石の欠片はなくなっていた。

 保管場所の木箱は壊されている。

 五つの刻みも、刃物で削り取られていた。


 白い粉が入っていた袋には、商人の名も産地もない。

 ただ、袋を縫った糸だけが鮮やかな紫色だった。


「この辺りの坑夫が使う糸やない」


 老坑夫が言った。


「濡れても目立つよう、俺らは白か藁色を使う」


 粉の袋。

 塞がれた風穴。

 持ち去られた五鬼の欠片。

 別々に見えたものが、人の手によってつながり始めた。


 ◇


 夜になって、宇治へ三通目の知らせが届いた。


『岩名、生存。医師が看る』


『守りの欠片、なし』


 茶太郎は最初の札を、二つに分けた。


 病人の札は、まだ赤いまま。

 欠片の札は、道を調べる青い紐へ替える。

 人を助ける仕事と、盗まれた物を追う仕事を混ぜないためだ。


「岩名さんが目を覚ましたら、欠片より先に身体のことを聞いて」


 茶太郎は伝令へ頼んだ。


「誰が取ったかを、すぐ問い詰めたらあかんの?」


 友照が尋ねる。


「話せる身体かどうか、先生に決めてもらう。欠片を急いで、岩名さんを悪くしたらだめだから」


 翌朝、岩名は短い言葉を話せるまで回復した。

 医師の許しを得て、善丸が一つだけ尋ねた。


「欠片を持ち去った者を見たか」


 岩名は頷いた。


「顔は……見ていない」


 息を整え、途切れながら続ける。


「紫の糸を付けた荷。種籾を運んだ男たちとは……別だ」


「どこへ向かった」


「北へ。丹波へ抜ける、古い鉱石道……」


 それ以上は聞かなかった。

 岩名は再び横になり、医師が休ませた。


 紫の糸。

 丹波へ続く鉱石道。

 そして、人の欲に持ち去られた役小角の欠片。


 《縁扉》の青い札は、宇治からさらに北へ、新しい道を開こうとしていた。


 けれど茶太郎は、まだ旅支度を始めなかった。


「次は、丹波の道を知る人へ頼む」


 自分が走り出す前に、必要な人へ知らせを渡す。

 それが《縁扉》を作った、六歳の茶太郎の最初の約束だった。


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『茶太郎がゆく』
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