第231話 「青羽便と、返事を待つ縁扉」
――すぐに駆けつけられなくても、知らせを途切れさせない――
伊丹の種籾は、全てが戻ったわけではなかった。
多田へ運ばれた荷駄から取り戻せたもの。
預かり小屋の床下に残っていたもの。
すでに売られ、行き先の分からなくなったもの。
それぞれを帳面へ分けて記す。
取り戻した籾も、すぐ村へ返さない。
村ごとに少量を湿らせ、芽が出るか確かめる。
芽の弱いものは種として数えず、食用にできるかどうかも大人と農事を知る者が調べる。
伊丹親興は、新しい決まりを作った。
村で量った者。
途中で預かった者。
城下の蔵で受け取った者。
三者がそれぞれ木札へ印を残す。
枡は全てを一つの形へ揃えるのではなく、基準枡と比べて、どれほど違うかを帳面へ書く。
預かり小屋も、一つの家へ任せきりにしない。
稲守源兵衛は、すぐ元の役目へ戻されなかった。
最初の一升を黙っていた責任は残る。
だが、脅されていた事情も記録され、娘とともに安全な場所で休むことになった。
「罰するか、許すかだけでは決めぬ」
親興が言った。
「何をしたか。なぜ黙ったか。次に黙らず知らせるには何が要るか。それを分けて考える」
茶太郎は、その言葉を白紙の帳面へ書き留めた。
伊丹を発つ朝、親興は一通の文を弥七へ預けた。
「宇治、伏見、山崎で道の異変があれば、伊丹にも知らせてほしい。こちらも摂津の動きを返そう」
「軍勢を貸し借りする約束やないんやな」
「違う」
親興は答えた。
「飢えや病や道の崩れは、兵を出してから知ったのでは遅い。先に知らせを交わす約束だ」
伊丹氏と水輪の間に結ばれた最初の縁は、戦の盟約ではなかった。
困り事を、手遅れになる前に伝えるための道だった。
◇
宇治へ戻ると、茶太郎は秘密基地の壁へ大きな板を立てた。
名を《縁扉》とした。
扉のように左右へ開く板で、内側へ木札を掛けられる。
左には、今すぐ確かめる知らせ。
中央には、道や人を調べてから動く知らせ。
右には、返事を待っている知らせ。
「全部、茶太郎に見せるん?」
かん太が尋ねた。
「最初は見せてもらう。でも、ぼくがいないと動かない形にはしない」
茶太郎は役目札を作った。
道と橋——弥七と馬借衆。
食べ物と蔵——宗次、友照、町の商人。
病と薬——土地の医師、曲直瀬道三へつながる使者。
火と建物——町組、甚八、職人衆。
山と霊の気配——葛女、五鬼守、影猫衆。
どこへ渡すべきか分からない知らせだけを、中央の札へ掛ける。
「茶太郎の仕事、減るんと違う?」
友照が笑った。
「減らしたいんじゃないよ」
茶太郎は答えた。
「ぼくにできないことを、できないまま抱えないようにしたい」
札は、色だけで分けなかった。
赤い紐には、固い結び目を三つ。
命や火に関わり、急いで大人へ知らせる印。
青い紐には、結び目を二つ。
道、橋、荷の異変。
白い紐には、大きな輪を一つ。
無事の知らせや、返事を待つもの。
色が見分けにくい者でも、触れば分かる。
文字が読めない者は、絵や木札の形で伝えられる。
青羽便も、鳥だけに頼らない仕組みにした。
アオバトが運ぶのは、短い印と行き先だけ。
受け取った歩き巫女、寺の使い、商人、馬借が詳しい話を聞き、次の場所へ届ける。
鳥が嵐で飛べない日は、人が運ぶ。
人が通れない道は、別の堂へ鳥を飛ばす。
「ご褒美は塩煎餅やったな」
かん太が、小さな煎餅を持ってきた。
葛女が慌てて止めた。
「それは人の使いへ」
「鳥にはあかんの?」
「塩気の強い物は与えませぬ」
アオバトには塩を加えていない粟や稗、きれいな水を少量用意する。
塩煎餅は、山道を歩いて知らせをつないだ人や、夜通し馬を引いた者へ渡す。
「同じ便でも、鳥と人では食べる物が違うんやな」
友照は、塩煎餅の箱へ人の印を描いた。
鳥用の穀物箱には、青い羽と五つの小さな粒を描く。
白灯が鳥用の箱を覗き込んだ。
「にゃ?」
「白灯の分でもないよ」
千代に抱き上げられ、白灯は不満そうに尻尾を振った。
◇
善丸は、役小角の物と伝わる黒い石の欠片を、宇治へ置いていかなかった。
五鬼守が預かる物だからだ。
茶太郎へ見せることと、譲ることは違う。
善丸は自分で欠片を持ち、返事の途絶えた守り手を探すため、摂津の山へ戻った。
茶太郎たちは、五鬼守の残る道へ青羽便を送った。
一つ目の返事。
白い輪の紐。
『南の守り、異変なし』
二つ目。
白い輪に、短い青紐。
『東の道、崩れあり。欠片は無事』
道の修復は、土地の者へ任せる。茶太郎が向かう必要はない。
三つ目。
五つの刻みを入れた木片。
『西の守り、欠片あり。偽札に注意』
四つ目。
返事なし。
返事がないことも、縁扉へ掛けた。
すぐ危険と決めず、別の道からもう一度知らせを送る。
「前なら、ぼくが見に行くって言ってたかも」
茶太郎が言う。
「今も行きたいんやろ」
かん太が尋ねる。
「うん。でも、行きたいことと、行くべきことは同じじゃないから」
その夜、最後の一羽が宇治へ戻ってきた。
翼を疲れさせ、脚には紐がない。
代わりに、嘴で黒い布の切れ端をくわえている。
布には白い粉が付着していた。
茶丸が匂いを確かめようとすると、弥七が止めた。
「近づくな。何の粉か分からへん」
布は子どもや動物から離し、蓋のある箱へ入れられた。
翌朝、鉱石と土を知る職人に見せることになった。
アオバトが飛んできた方角を、葛女が地図で確かめる。
「多田の山です」
伊丹から運び出された種籾が向かっていた場所。
そして、返事のない五鬼守が欠片を預かっていた場所でもある。
翌朝、青羽便から人の伝言が届いた。
『多田の古い坑道で、白い粉を吸った者が倒れた。
坑口には、五本の刻みを削り消した跡がある』
茶太郎は、赤い紐の木札を《縁扉》の左へ掛けた。
病人がいる。
正体不明の粉がある。
古い坑道がある。
だからこそ、六歳の子が先頭で入ってはならない。
「先に、誰へ頼む?」
茶太郎は自分へ問いかけた。
答えは一つではなかった。
医師。
鉱山を知る者。
坑道を支える職人。
そして、多田へ戻った善丸。
《縁扉》ができて最初の急ぎ札は——茶太郎を呼ぶ札ではなく、必要な人々を別々の道から呼び集める札になった。




