第230話 「洞の二つの出口と、五鬼の守り手」
――助けに行くことだけが、助けることではない――
青い布に書かれた『洞』の一字。
そして、本物の五鬼の印を示す五本の線。
伊丹親興は、箕面の山へ向かう者をすぐに決めた。
弥七。
葛女。
山道を知る伊丹の家人が三人。
親子の顔を知る稲守家の隣人が一人。
大勢の兵は連れて行かない。
洞を囲めば、中にいる者が稲守親子を傷つけるかもしれないからだ。
茶丸と白灯は、少し離れて先を調べる役目を任された。
敵へ飛びかかるためではない。
人の匂い、隠れた道、崩れそうな岩を見つけ、大人へ知らせるためだった。
「ぼくも行った方がいい?」
茶太郎は一度だけ尋ねた。
「行かん方がええ」
弥七ははっきり答えた。
「洞の広さも、出口の数も分からへん。六つの子を連れて確かめる場所やない」
「分かった」
茶太郎は、それ以上頼まなかった。
白紙の帳面へ書いた役目を、自分から変えなかった。
伊丹城下に残り、戻ってくる者の食事を整える。
見つかった種籾を、食べる穀物と混ぜない場所を作る。
怪我人がいれば、まず土地の医師へ診てもらう。
そして、青羽便から届く情報を順番に帳面へ記す。
最初の知らせは、昼前に届いた。
青い紐が一本。
『山道に荷駄なし』
種籾を運んだ者たちは、親子と荷をすでに分けていた。
次の知らせは、青と白の紐。
『洞へ続く足跡あり。見張り不明』
茶太郎は地図の洞へ木札を置いた。
その横へ、もう一枚。
『入口は一つと決めない』
柳生の山道で、足跡が途切れたと思い込んだ失敗を覚えていたからだ。
茶太郎は、その短い文を青羽便へ託した。
アオバトが運べるのは小さな木片だけ。
詳しい意味は、次の堂にいる人が読み、山へ向かう旅人へ口で伝える。
鳥から人へ。
人から次の人へ。
知らせは、細い道を途切れず進んでいった。
◇
箕面の山中では、弥七たちが洞の前へ着いていた。
入口の土には、四人分ほどの足跡がある。
だが、中から物音は聞こえない。
白灯が洞へ近づき、すぐに右へ曲がった。
「にゃっ」
苔に覆われた岩壁の前で、前足を止める。
岩の隙間から、わずかに風が流れていた。
葛女が周囲の蔓を払い、細い抜け道を見つけた。
「裏へ通じております」
「茶太郎の木札どおりやな」
弥七は正面から入らなかった。
二人を裏へ回す。
一人は山道へ残し、逃げる者がいないか見張る。
自分と葛女は、洞の外から声をかけた。
「稲守源兵衛! 伊丹から迎えに来た!」
返事はない。
代わりに、洞の奥で小石が一つ転がった。
茶丸が低い姿勢で闇を見つめる。
「……ニャッ」
しばらくすると、一人の男が姿を現した。
山伏とも猟師ともつかない姿。
背には短い杖。
腰には五つの刻みを入れた木札を下げている。
「武器を置け」
伊丹の家人が身構えた。
男は杖を地面へ置き、両手を見せた。
「稲守の親子は無事だ。娘は疲れているが、大きな傷はない」
「お前は誰や」
「五鬼守の一人。名を善丸という」
五鬼守。
前鬼と後鬼の末を名乗る五つの家が、山道や行場を分けて守る者たちだった。
鬼の力で人を従わせる者ではない。
崩れた道を知らせる。
迷った旅人を里へ戻す。
飢饉の種籾や、病人へ送る薬が途中で奪われないよう見張る。
それが彼らの役目だった。
「青い布を出したんは、お前か」
「娘が『洞』と書いた。五本の刻みは私が加えた」
「何のためや」
「偽の鬼札を使う者がいると、歩き巫女から聞いていた。本物の五鬼が親子を見つけたと知らせるためだ」
稲守親子を連れてきた男たちは、洞へ入れたあと、見張りを一人だけ残して山を下りた。
善丸は裏の出口から入り、その見張りを追い払った。
だが親子をすぐ外へ出さなかった。
表の道に別の仲間がいる可能性があったからだ。
「助けたのに、洞へ残したのか」
家人の一人が責めるように言った。
「外へ出すことと、無事に帰すことは違う」
善丸は静かに答えた。
「追う者がいないと確かめるまで、ここが一番安全だった」
弥七は洞の正面と裏道を見た。
「同じ考えや。俺らも出口を確かめる前には入らんかった」
稲守源兵衛と娘は、やがて洞から出てきた。
源兵衛は左足を引きずっていたが、自分で歩ける。
娘は青い布を首へ巻き直し、葛女の差し出した水を少しずつ飲んだ。
急いで食べ物を詰め込ませない。
怪我と意識を確かめ、休ませながら山を下りる。
帰還の知らせは、青羽便によって伊丹城へ先に届けられた。
◇
「親子無事」
木札の文字を読んだ茶太郎は、ようやく息を吐いた。
だが、すぐに祝いの膳は作らなかった。
長く歩き、怖い思いをした者が何を食べられるかは、帰ってから確かめなければならない。
茶太郎は薄い粥。
柔らかく煮た豆。
塩気を抑えた味噌汁。
普通の固さの麦飯。
いくつかの形を用意し、医師の判断と本人の様子で選べるようにした。
日暮れ前、稲守親子が城下へ戻った。
医師が身体を診たあと、娘は薄い粥を選んだ。
一口。
休んで、もう一口。
「温かい」
それだけ言うと、椀を両手で包んだ。
源兵衛は食事を終えてから、預かり小屋で起きていたことを話した。
「最初は、ほんの一升やった」
濡れた俵を乾かす手間賃として、荷から一升。
縄を替える代として、また一升。
そのうち城下の米商人が現れ、
「村も蔵も枡が違う。少しくらい抜いても分からぬ」
そう言って、抜く量を増やした。
「断ったんです。これは食べる米やない。来年蒔く種やと」
「それで脅されたのか」
親興が問う。
「娘を連れて行くと言われました。偽の預かり印まで作られて……」
源兵衛は頭を下げた。
「最初の一升を黙ってしまった。そこで話しておけば、こんなことにはならんかった」
親興は、すぐに罪を決めなかった。
源兵衛が抜き取りへ加わった事実。
脅されていた事情。
娘を守ろうとしたこと。
長年、預かり小屋を誰も改めなかった伊丹側の責任。
全てを立会人の前で記録させた。
一方、種籾を運んだ荷駄は、多田へ向かう道で見つかった。
青羽便の知らせを受けた馬借と村人が道を塞ぎ、伊丹の家人が追いつくまで見張っていたのだ。
荷を運んだ男たちも捕らえられた。
だが、種籾はすぐ村へ返さなかった。
「蒸れたり、水を吸ったりした籾が混じっているかもしれません」
茶太郎が言った。
「見た目が無事でも、ちゃんと芽が出るかは分からない」
親興は農事を知る者へ命じ、村ごとに少量を取り分けて発芽を確かめることにした。
芽の出ない籾を返せば、数だけ合っていても来年の実りは失われる。
残りは村人、蔵番、伊丹氏の三者で封じる。
量る枡も、比べるための基準を一つ作り、村と蔵に写しを置く。
基準枡は一人で保管せず、三つの印がなければ持ち出せない。
「宇治の水輪と同じだな」
親興が言った。
「一つの蔵、一人の役人、一枚の印に任せきらない」
「同じじゃなくても、比べられたらいいと思います」
茶太郎は答えた。
「違う枡を全部捨てなくても、どれくらい違うか分かれば、帳面に書けるから」
夜、善丸が茶太郎の前へ本物の五鬼札を置いた。
「偽の印を見分けた礼だ」
「ぼくは見分けてないよ。葛女さんが教えてくれた」
「ならば、そのことを忘れぬ礼だ」
善丸は笑った。
茶太郎は札を受け取らず、まず尋ねた。
「これは、ぼくが持ってもいい物?」
「まだ早い」
善丸は自分で札を引き戻した。
「その問いができるなら、いつか預けられるかもしれぬ」
そして腰から、別の小さな包みを出した。
中に入っていたのは、黒い石で作られた杖の先だった。
表面には、風化した五本の線。
触れていないのに、茶太郎の《霊性味覚》へ、山椒のような鋭い気配が届く。
茶丸が目を細めた。
「……ニャ」
「これは何?」
「役小角様が残したと伝わる物の、欠片だ」
善丸の声が低くなる。
「五鬼守が長く分けて守ってきた。だが近頃、残る四つの欠片のうち、一つから返事がなくなった」
種籾を盗んだ者が偽の鬼札を使ったこと。
守りの欠片が沈黙したこと。
二つが偶然かどうかは、まだ分からない。
善丸は黒い石を包み直した。
「人の欲が、古い守りを利用し始めたのかもしれぬ」
伊丹の種籾は取り戻された。
けれど、鬼の名を盗んだ者たちの先には——人だけでは守れない、さらに古い道が続いていた。




