第229話 「鬼の印と、盗まれた守り名」
――恐ろしい印が、恐ろしい者のものとは限らない――
預かり小屋で見つかった木札は、伊丹城へ運ばれた。
二本の角。
大きく開いた口。
人とも鬼ともつかない顔。
茶丸と白灯が毛を逆立てたため、城の者たちは木札を鬼の呪いだと疑った。
「焼いた方がよいのでは」
家人の一人が言った。
「城へ災いを持ち込むやもしれませぬ」
「焼かない」
伊丹親興は即座に退けた。
「正体の分からぬ物へ素手で触れるな。だが、分からぬからと燃やせば、誰が何のために置いたかも調べられなくなる」
木札は布に包み、人の出入りする部屋から離して保管された。
茶太郎にも触らせない。
茶丸たちは運ばず、匂いと気配を覚えるだけにした。
その日の午後、城下へ一人の歩き巫女が来た。
名を葛女という。
山寺や市、村の鎮守を巡り、祈りの言葉を伝える一方、道の崩れ、病の流行、米の値、行方の分からない者について聞き集めていた。
伊丹氏の家人が、鬼の木札について尋ねる。
葛女は布越しに形を確かめると、眉を寄せた。
「これは五鬼の守り印に似ております」
「五匹の鬼か?」
「数の五に、鬼と書きます。役小角に従ったと伝わる前鬼と後鬼。その末を名乗り、山道や行場を守ってきた者たちがおります」
部屋の空気が変わった。
「では、やはり鬼の仕業か」
「まだ決められませぬ」
葛女は自分の荷から、古びた小さな札を取り出した。
そこにも角を持つ顔が刻まれている。
だが、預かり小屋の札とは違っていた。
口は大きく開いているものの、人を食らう顔ではない。
左右へ向けて息を吐き、近づく災いを追い払う形だった。
裏には、五つの浅い刻みがある。
「本来は、飢えた者へ渡す穀物や、来年蒔く種を守るための印です」
葛女が説明した。
「この印がある荷を、道中で勝手に徴発してはならない。食べる米と種籾を混ぜてはならない。昔は、そのような約束に使われたと聞いております」
茶太郎は、預かり小屋の木札を思い出した。
「見つけた方には、五つの刻みがなかった」
「顔も逆です」
葛女が言った。
「守る息を吐く口ではなく、穀物を呑み込む口に彫り直されている」
誰かが五鬼の名を使い、偽物の印を作った。
種籾を盗んだうえで、鬼の仕業だと思わせるために。
「どうして茶丸たちは怖がったんだろう」
茶太郎が尋ねる。
葛女は、すぐに霊のためだとは答えなかった。
「古い札を焼き写した木には、油や煤を混ぜることがあります。獣の嫌う草汁を塗ったのかもしれません。まず職人と薬草を知る者に調べてもらいましょう」
霊が嫌ったのか。
塗られた物の匂いを嫌ったのか。
その両方なのか。
今はまだ分からない。
分からないものを、都合よく怪異のせいにはしなかった。
親興は葛女へ、稲守の預かり役について尋ねた。
「この辺りで、家族連れを見なかったか」
「昨日の夜明け前、男一人と娘一人を見ました」
「どこで?」
「箕面へ向かう道です。男は左足を引きずり、娘は青い布を首へ巻いておりました。二人の後ろには、荷駄が三頭。知らぬ男が四人ついていた」
預かり役の稲守源兵衛には、十二歳の娘がいる。
左足には、古い荷車事故の傷があった。
「逃げたのではないのか」
親興が問う。
「自由に歩いているようには見えませんでした」
葛女は答えた。
「娘が一度、道端へ青い布の端を結びました。後ろの男が気づいて、すぐに外しています」
助けを求める印だった可能性がある。
弥七が地図を開いた。
「箕面へ向かったとして、その先は?」
「山へ入る道と、池田へ戻る道。それから多田へ抜ける道に分かれます」
稲守親子を連れた者たちは、どの道へ進んだのか。
人の足だけで追えば、すでに一日遅れている。
「次の市へ知らせます」
葛女は荷から、細い青緑の紐を取り出した。
城下の外にある小さな堂へ行き、屋根の近くで三度、短い笛を鳴らす。
しばらくすると、林の方から一羽の鳥が舞い降りた。
灰緑の身体。
翼には淡い青。
宇治から文を運ぶシオと同じ、アオバトだった。
「この子も文を運べるの?」
茶太郎が目を見張る。
「長い文は無理です」
葛女は笑った。
「行き先の色と、急ぎかどうかを知らせるだけ。詳しい話は、文を受け取った人が次の旅人へ伝えます」
葛女は小さな木片へ、二本の道と荷駄三頭の印を描いた。
青緑の紐を脚へ結ぶ。
アオバトは塩気のある小さな煎餅を一欠片だけ受け取ると、北西の空へ飛び立った。
「青羽便です」
「青羽便……」
「鳥だけで遠くまで知らせるのではありません。鳥が次の人へ伝え、人がまた道を確かめる。歩き巫女、商人、山伏、馬借、寺の使い。皆でつなぎます」
茶太郎は白紙の帳面へ、その名を書いた。
情報も、一羽に全てを背負わせない。
一人の使者が捕まっても、道が一つ途切れても、別の人が続きを運ぶ。
水叟が教えた、蔵と道の分け方に似ていた。
夕方までに、最初の返事が届いた。
戻ってきたアオバトの脚には、赤茶色の紐が一本。
葛女が色を確かめる。
「箕面の手前で、荷駄三頭を見た者がいます。ですが、親子は一緒ではなかった」
「途中で分けた?」
「そのようです。荷は多田へ。親子は山へ入った可能性があります」
伊丹親興は家人たちへ命じた。
「兵を二手に分ける。だが、大人数で山へ踏み込むな。親子を人質にされる」
荷を追う者。
親子を探す者。
城下に残り、種籾と蔵を守る者。
それぞれの役目が決められた。
「ぼくは?」
茶太郎が尋ねる。
弥七は少し考えた。
「山へは連れて行かん。道も相手の数も分からへん」
以前の茶太郎なら、一緒に行きたいと言ったかもしれない。
だが白紙の帳面には、三つの欄がある。
今すること。
あとですること。
ほかの人に頼むこと。
「分かった。ぼくは城下に残る」
茶太郎は自分で書いた。
『稲守親子を探す——弥七さんと伊丹の人に頼む』
『戻った人の食事と、見つかった種籾を分ける場所を作る——今する』
親興は、その文字を見て頷いた。
「行かぬと決めるにも、勇気が要るな」
日が沈む前、城下の空へもう一羽のアオバトが現れた。
今度の脚には、青い布の切れ端が結ばれている。
稲守の娘が首へ巻いていたものと、同じ色だった。
布の内側には、炭で短い線が五本。
そして、その下に小さな文字が一つだけ書かれていた。
『洞』
稲守親子は、箕面の山中にある洞へ連れて行かれた。
だが五本の線は、助けを求める印だけではなかった。
偽の木札にはなかった、本物の五鬼の刻みだった。




