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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第225話 「欠けた月の終わりと、帰る場所の印」

 ――町の持ち主は、最後に紙を拾った者ではない――


 残月が指定したのは、下京の焼け跡だった。


 法華一揆の兵火で町並みを失ってから、まだ持ち主の定まらない土地が残っている。


 焼けた柱の根元。

 崩れた土壁。

 草に埋もれた井戸。


 家を失った者が戻ろうとしても、昔の境目はもう見えない。

 灰屋宗玄はいや・そうげんは、山崎の油蔵から回収した文書を広げた。


『下京焼亡ニ関スル内約』


 火災や戦で住人が離れた土地を安く買い集め、戻ろうとする者には高い銭を求める。

 井戸、蔵、荷揚げ場を先に押さえ、従わない者には商いの道を使わせない。


 文書には、その取り決めが記されていた。

 しかし、誰が加わったのかを示す最後の一枚がない。


「残月は、それを持って来ると言うてる」


 弥七やしちが告げた。


「代わりに茶太郎を連れて来い、か」


 長逸の声には怒りが混じっている。


「行かせる必要はない」


 宗玄も反対した。


「奴が欲しいのは原本の受け渡しではない。六歳の子を大勢の前へ立たせ、土地の持ち主を決めさせることだ」


「ぼくが間違えたら?」


 茶太郎が尋ねた。


「お前が決めたという形だけが残る」


 宗玄は焼け跡を見つめた。


「正しくても、間違っていても同じだ。後で争いが起きれば、残月はこう言える。土地を奪ったのは灰屋でも欠け輪でもない。宇治の茶太郎だとな」


 茶太郎は黙った。


 人が多いところで料理を作ることはできる。

 困っている者の話を聞くこともできる。

 けれど、誰の土地かを決める知識も権限もない。


「ぼくは決めない」


 茶太郎は答えた。


「でも、帰りたい人が話せる場所は作りたい」


 約束の時刻より前に、焼け跡の周囲へ人が集められた。


 町組。

 寺の記録を預かる僧。

 土地の売買を知る商人。

 火事の前に住んでいた者。

 避難先で生まれ、親から昔の家の話を聞いてきた子。

 幕府方と晴元方からも、それぞれ一人ずつ立会人が来た。


 片方だけの印で決めないためだった。


 土地の中央には、長い縄が置かれた。

 縄には、家ごとに違う結び目が作られている。


「これは土地を分ける縄やない」


 千代が集まった人々へ説明した。


「話を混ぜんための縄です。自分の家や店があった場所を知る人は、その場所に近い結び目へ木札を付けてください」


 木札も一種類ではなかった。


 本人の記憶。

 隣人の証言。

 寺社や町組の記録。

 古い売券や借状。

 井戸、石垣、樹木など、土地に残った目印。

 それぞれに別の印をつける。


 一つの証拠だけで持ち主を決めない。

 食い違う場所は縄を張ったまま残し、後日、複数の大人が改めて調べる。


 茶太郎は判定する席には座らなかった。


 焼け跡から離れた仮小屋で、戻ってきた人々へ粥を配った。

 麦と米を合わせ、干し大根と刻んだ芋茎ずいきを煮たものだった。


 昔の家を思い出して泣く者もいた。

 隣人の名を口にできず、椀だけを見つめる者もいた。

 言葉にできない痛みも、料理なら誰かに届くことがある。


 茶太郎は答えを急がせず、温かい椀を手渡した。

 日が傾く頃、焼け跡の端へ一台の荷車が現れた。


 積まれているのは、月の欠けた印を付けた箱だった。

 荷車の後ろから、山崎の油蔵にいた老人が歩いてくる。


「ずいぶんと大勢を集められましたな」


 弥七と日置雪へき・ゆきが、茶太郎の前へ立った。

 茶丸と白灯あかりは逃げ道を見張る。

 老人は懐から一枚の紙を取り出した。


「これが、そなたらの欲した最後の一枚」


 灰屋宗悦をはじめ、内約へ加わった者の名と印が並んでいた。


「六歳の子よ。あの土地の持ち主を一人、選びなされ。原本は、その者へ渡そう」


「選ばない」


 茶太郎は答えた。


「怖いのか?」


「怖いよ」


 茶太郎は隠さなかった。


「知らない人の家を、ぼくが決めるのは怖い。でも、怖くないふりをして決めたら、もっとだめだと思う」


 老人は鼻で笑った。


「ならば、いつまでも争い続けるがよい。人の記憶は違う。紙は焼ける。最後には、強い者が決めるしかない」


「紙は一枚だけじゃない」


 千代が言った。


 縄に結ばれた木札は、すでに百を超えている。

 焼け残った売券。

 寺の過去帳。

 町組の帳面。

 隣家が覚えていた井戸の位置。

 石垣に残る刻み目。

 避難先へ持ち出された家印。


 一枚だけなら、奪える。

 一冊だけなら、燃やせる。


 だが、別々の場所に残された記録と記憶を全て消すことはできない。


 宗玄が老人の前へ進んだ。


「父は一枚の内約で、町を手に入れられると思った。そして俺も、父の帳面を守れば灰屋を守れると思っていた」


 宗玄は、受け継いだ鍵を地面へ置いた。


「だが、鍵を持つ者が蔵の主とは限らない。原本を持つ者が、町の主でもない」


 老人の顔から笑みが消えた。


「灰屋を潰すおつもりか」


「違う。灰屋が奪って得た土地と井戸を調べ、返せるものは返す。持ち主が分からない場所は、勝手に売らず、立会人の前で預かる」


「それでは商いにならぬ!」


「奪わなければ続かぬ商いなら、一度終わらせる」


 宗玄の言葉に、集まった者たちがざわめいた。


 老人は文書を破ろうとした。

 だが、雪がその手首を押さえた。

 弥七たちも老人を打ち据えなかった。

 文書と荷車を押さえ、町組と立会人へ引き渡す。


 誰を捕らえ、どの罪を問うかは、茶太郎たちだけで決めることではない。

 影猫衆は、荷車の陰に隠れていた二人の男を見つけた。


 白灯が一人の前へ座る。

 茶丸がもう一人の退路を示すように、路地の出口へ立つ。


 二人は刃を抜く前に、町組へ取り押さえられた。

 欠け輪とは、一人の悪人の名ではなかった。


 焼けた家。

 失われた帳面。

 帰れない人。


 その隙間へ入り込み、利益を得ようとする者たちのつながりだった。

 だから、老人一人を捕らえても、全てが終わるわけではない。

 それでも、火を待ち、焼け跡を奪う仕組みは明るみに出た。


 最後の一枚は、立会人たちの前で写しが作られた。


 一通は町組。

 一通は寺。

 一通は幕府方。

 一通は晴元方。


 原本は、いずれの者も勝手に持ち出せない箱へ収められ、異なる三つの印で封じられた。


 灰屋宗玄の父の名も、消されなかった。

 忘れたい罪だからといって、記録から消してしまえば、同じ仕組みがまた名前を変えて戻ってくる。


 数日後、焼け跡に最初の家を建て直すための柱が運ばれた。

 誰の土地か確かめられた場所から、少しずつ再建する。


 茶太郎は柱へ触れなかった。

 大工が木を調べ、町組が境目を確かめ、持ち主が最初の土を踏み固めるのを見守った。


「終わったんかな」


 かん太が尋ねる。


「全部は終わってないよ」


 茶太郎は答えた。


 残月という呼び名を使う者が、ほかにもいるかもしれない。

 欠け輪から利益を得た者も、一度には改めないだろう。

 迷いながら、確かめながら進むしかない。


「でも、帰る道はできたと思う」


 茶丸が、新しい柱の根元へ前足を置いた。


「……ニャッ」


 その夜、宇治へ帰る茶太郎の荷には、宝も褒美も入っていなかった。

 入っていたのは、白紙の帳面だった。

 焼け跡へ戻った一人の老人が、


「次に作る町のことは、まだ誰も書いておらん」


 そう言って渡してくれたものだ。


 過去を消すための帳面ではない。

 まだ見えない未来を、一歩ずつ自分たちで描くための帳面だった。

 長く続いた火と偽りの騒動は、ここで一つの区切りを迎えた。


 そして季節は巡る。


 宇治の茶畑に新しい芽が揃う頃——六歳の茶太郎にも、自分で選ばなければならない春が訪れようとしていた。


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『茶太郎がゆく』
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