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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第224話 「山崎の油蔵と、使わなかった鍵」

 ――扉を開ける前に、閉じ込められているものを知る――


 灰屋宗玄はいや・そうげんから渡された鍵を、弥七やしちは使わなかった。


 山崎の古い油蔵。

 その裏手にある小さな旅籠で、茶太郎たちは日が暮れるのを待っていた。


「鍵があるのに、どうして入らないの?」


 茶太郎が尋ねると、弥七は窓の隙間から油蔵を見た。


「向こうが渡すよう仕向けた鍵かもしれん。開けた途端に鈴が鳴るか、縄が外れるか、火が落ちるか。鍵があるから安全とは限らん」


 油蔵の中へ入るのは、大人たちの仕事だった。

 茶太郎とかん太は旅籠に残り、町の子どもや老人が避難してきたときのため、湯と食事を用意する。

 茶丸と白灯あかりも、危険な蔵へは入らない。


 屋根や川岸から人の出入りを見張り、異変を弥七たちへ知らせる役目だった。


 日置雪へき・ゆきは油蔵の周囲を一巡し、戻ってきた。


「表の戸には新しい足跡がない。けれど、川側の石段に濡れた藁屑が落ちている」


「船から荷を入れた跡やな」


 佐吉が答えた。


「それと、蔵の裏壁だけ土の色が違います」


「塗り直したんか?」


「いいえ。人が通れるほどの板戸を、泥で隠してあります」


 正面の鍵は、人の目を引きつけるためのものだった。

 本当の入口は川側にある。


 さらに油蔵の軒下からは、細い縄が隣の空き家へ延びていた。

 縄の先を追った長逸が、顔を険しくする。


「空き家の二階に、火種を入れた土器が置いてある。縄を引けば蓋が落ちる仕掛けだ」

 油蔵へ踏み込んだ者を閉じ込め、その騒ぎに紛れて隣家から火を出す。


 油蔵が燃えれば、証拠も人も灰になる。

 残月は、宗玄が鍵を持って来ることまで読んでいた。


「捕らえることより、先に町を守る」


 弥七の言葉で、山崎の町組が動いた。


 油蔵に近い家から人を離す。

 火鉢と灯明を消す。

 井戸水は屋根や壁を濡らすために使い、油へ直接かけない。

 蔵の周りには砂と土を入れた桶、濡らした筵、延焼を防ぐための鳶口が並べられた。


 子どもたちは近づけない。

 茶太郎のいる旅籠まで下がらせた。

 灰童子のカイが、旅籠の土間で急に顔を上げた。


「……火が、おなかをすかせてる」


 茶太郎には、その意味が分かった。

 まだ燃えてはいない。

 けれど、油蔵には火が広がるための道が、あらかじめ作られている。


「弥七さんに知らせて。中の油だけじゃない。床にも何か染み込ませてあるかもしれない」


 茶丸が影のように駆け出した。


「……ニャッ」


 日が沈む頃、一艘の小舟が油蔵の裏へ着いた。

 降りてきたのは、月の欠けた印を袖へ縫いつけた老人だった。

 腰は曲がり、手には帳面を抱えている。


 宗玄が旅籠を出て、その前へ立った。


「残月か」


 老人は笑った。


「残月は、人の名ではございません」


 しわがれた声だった。


「焼け跡へ最初に杭を打つ者。飢えた者から蔵を買う者。戻れぬ者の土地を帳面から消す者。その全てが残月にございます」


「では、お前は何者だ」


「先代、灰屋宗悦様の帳付けにすぎませぬ」


 宗玄の表情が凍った。


「父の……」


「宗悦様は理解しておられた。戦は止まらぬ。火も飢えもなくならぬ。ならば、その後に残る物を集めた者が、次の町を作ればよいと」


「集めたのではない。戻る道を塞いで、奪ったのだ」


「違いがございますか?」


 老人は油蔵を見上げた。


「町を作るには、強い一人が全てを握らねばならぬ。細かな持ち主、細かな印、細かな言い分。それらを聞いていては、復興など進みませぬ」


 宗玄は、父の鍵を握りしめた。


「それが、欠け輪か」


「欠けたところを埋める者が、輪の主となる。それだけのこと」


 老人が片手を上げた。

 空き家の二階で、何者かが縄を引いた。


 だが火種を収めた土器は、すでに雪たちが取り外している。

 何も起こらなかった。

 老人の笑みが消える。


 次の瞬間、油蔵の中から煙が噴き出した。


「中にも火種がある!」


 町組が叫んだ。


 泥で隠された裏戸を壊すと、床を這う炎が見えた。油を吸った藁が細長く並べられ、奥の樽へ火を導こうとしている。


「水を入れるな! 燃えた油が流れるぞ!」


 職人たちは砂と土をかけ、濡れた筵で炎の道を断った。

 宗玄は蔵の奥へ走ろうとした。

 佐吉が腕をつかむ。


「何を取りに行く!」


「父の帳面と、《下京焼亡ニ関スル内約》の原本だ!」


「命を捨てて取る物か!」


「あれがなければ、奪われた者へ土地を返せぬ!」


 そのとき、梁の一部が音を立てた。

 宗玄の前へ、燃えかけた油樽が転がってくる。


 このままでは川側の戸が塞がれ、蔵の中にいる町人が逃げられない。

 宗玄は帳面の置かれた棚を見た。


 次に、出口を塞ごうとする樽を見た。

 選べるのは一つだった。


「棚は捨てろ! 先に戸を開ける!」


 宗玄は佐吉とともに樽へ太い棒を当て、横へ押しのけた。

 油が漏れたが、待ち構えていた職人たちが砂をかぶせる。


 川側の戸が開き、蔵の中にいた者たちは外へ逃れた。

 父の帳面を積んだ棚は、炎に包まれた。

 宗玄は歯を食いしばったが、戻らなかった。

 やがて火は、油樽へ燃え移る前に抑えられた。


 隣家にも被害はなかった。

 老人の姿は消えていた。

 白灯が川岸で鳴く。


「にゃあっ!」


 小舟が一艘、闇の中を下っていく。


 弥七たちは追わなかった。

 火の残る町を置いて、闇の川へ飛び出す方が危険だった。


「逃がしたか」


 宗玄がつぶやく。


「せやけど、燃やさせへんかった」


 弥七は答えた。


 夜半、鎮火した油蔵を大人たちが調べた。

 焼けた棚の下から、鉄張りの小箱が見つかった。

 中には、縁の焦げた一通の文書が残っている。


 表には、確かにこう書かれていた。


『下京焼亡ニ関スル内約』


 だが、署名の並ぶ最後の一枚だけがなかった。

 代わりに、小箱の底へ細長い紙が貼られていた。


『原本を望むなら、六歳の子を連れて来い。

 欠けた月は、あの子の前で満ちる』


 茶太郎はその文を、自分では読まなかった。

 弥七から内容を聞き、しばらく黙っていた。


「ぼくが行けば、原本を出すってこと?」


「出す保証はない」


 宗玄が答えた。


「お前を餌にして、俺たちを動かしたいだけだ」


 茶太郎は、旅籠へ避難してきた人々へ椀を配った。

 炒った米を煮た薄粥に、刻んだ干し菜と少しの塩を加えたものだった。


 火を消した者。

 家を離れて待っていた者。

 煙を吸って咳き込む者には、先に医師がついた。


 誰が残月なのか。

 原本がどこにあるのか。

 まだ答えは見つからない。


 それでも、今夜守れた家と、帰る場所を失わなかった人がいる。


「呼ばれたからって、一人では行かない」


 茶太郎は言った。


「ぼくを連れて行くかどうかも、残月には決めさせない」


 宗玄は、父から受け継いだ鍵を見つめた。


 結局、その鍵は最後まで使われなかった。

 開いたのは油蔵の扉ではない。


 灰屋宗玄が、父の罪から目を逸らさないと決めた道だった。


 そして残月が次に指定した場所は——かつて焼け落ちた下京の、誰のものとも決められていない一角だった。


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『茶太郎がゆく』
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