第224話 「山崎の油蔵と、使わなかった鍵」
――扉を開ける前に、閉じ込められているものを知る――
灰屋宗玄から渡された鍵を、弥七は使わなかった。
山崎の古い油蔵。
その裏手にある小さな旅籠で、茶太郎たちは日が暮れるのを待っていた。
「鍵があるのに、どうして入らないの?」
茶太郎が尋ねると、弥七は窓の隙間から油蔵を見た。
「向こうが渡すよう仕向けた鍵かもしれん。開けた途端に鈴が鳴るか、縄が外れるか、火が落ちるか。鍵があるから安全とは限らん」
油蔵の中へ入るのは、大人たちの仕事だった。
茶太郎とかん太は旅籠に残り、町の子どもや老人が避難してきたときのため、湯と食事を用意する。
茶丸と白灯も、危険な蔵へは入らない。
屋根や川岸から人の出入りを見張り、異変を弥七たちへ知らせる役目だった。
日置雪は油蔵の周囲を一巡し、戻ってきた。
「表の戸には新しい足跡がない。けれど、川側の石段に濡れた藁屑が落ちている」
「船から荷を入れた跡やな」
佐吉が答えた。
「それと、蔵の裏壁だけ土の色が違います」
「塗り直したんか?」
「いいえ。人が通れるほどの板戸を、泥で隠してあります」
正面の鍵は、人の目を引きつけるためのものだった。
本当の入口は川側にある。
さらに油蔵の軒下からは、細い縄が隣の空き家へ延びていた。
縄の先を追った長逸が、顔を険しくする。
「空き家の二階に、火種を入れた土器が置いてある。縄を引けば蓋が落ちる仕掛けだ」
油蔵へ踏み込んだ者を閉じ込め、その騒ぎに紛れて隣家から火を出す。
油蔵が燃えれば、証拠も人も灰になる。
残月は、宗玄が鍵を持って来ることまで読んでいた。
「捕らえることより、先に町を守る」
弥七の言葉で、山崎の町組が動いた。
油蔵に近い家から人を離す。
火鉢と灯明を消す。
井戸水は屋根や壁を濡らすために使い、油へ直接かけない。
蔵の周りには砂と土を入れた桶、濡らした筵、延焼を防ぐための鳶口が並べられた。
子どもたちは近づけない。
茶太郎のいる旅籠まで下がらせた。
灰童子のカイが、旅籠の土間で急に顔を上げた。
「……火が、おなかをすかせてる」
茶太郎には、その意味が分かった。
まだ燃えてはいない。
けれど、油蔵には火が広がるための道が、あらかじめ作られている。
「弥七さんに知らせて。中の油だけじゃない。床にも何か染み込ませてあるかもしれない」
茶丸が影のように駆け出した。
「……ニャッ」
日が沈む頃、一艘の小舟が油蔵の裏へ着いた。
降りてきたのは、月の欠けた印を袖へ縫いつけた老人だった。
腰は曲がり、手には帳面を抱えている。
宗玄が旅籠を出て、その前へ立った。
「残月か」
老人は笑った。
「残月は、人の名ではございません」
しわがれた声だった。
「焼け跡へ最初に杭を打つ者。飢えた者から蔵を買う者。戻れぬ者の土地を帳面から消す者。その全てが残月にございます」
「では、お前は何者だ」
「先代、灰屋宗悦様の帳付けにすぎませぬ」
宗玄の表情が凍った。
「父の……」
「宗悦様は理解しておられた。戦は止まらぬ。火も飢えもなくならぬ。ならば、その後に残る物を集めた者が、次の町を作ればよいと」
「集めたのではない。戻る道を塞いで、奪ったのだ」
「違いがございますか?」
老人は油蔵を見上げた。
「町を作るには、強い一人が全てを握らねばならぬ。細かな持ち主、細かな印、細かな言い分。それらを聞いていては、復興など進みませぬ」
宗玄は、父の鍵を握りしめた。
「それが、欠け輪か」
「欠けたところを埋める者が、輪の主となる。それだけのこと」
老人が片手を上げた。
空き家の二階で、何者かが縄を引いた。
だが火種を収めた土器は、すでに雪たちが取り外している。
何も起こらなかった。
老人の笑みが消える。
次の瞬間、油蔵の中から煙が噴き出した。
「中にも火種がある!」
町組が叫んだ。
泥で隠された裏戸を壊すと、床を這う炎が見えた。油を吸った藁が細長く並べられ、奥の樽へ火を導こうとしている。
「水を入れるな! 燃えた油が流れるぞ!」
職人たちは砂と土をかけ、濡れた筵で炎の道を断った。
宗玄は蔵の奥へ走ろうとした。
佐吉が腕をつかむ。
「何を取りに行く!」
「父の帳面と、《下京焼亡ニ関スル内約》の原本だ!」
「命を捨てて取る物か!」
「あれがなければ、奪われた者へ土地を返せぬ!」
そのとき、梁の一部が音を立てた。
宗玄の前へ、燃えかけた油樽が転がってくる。
このままでは川側の戸が塞がれ、蔵の中にいる町人が逃げられない。
宗玄は帳面の置かれた棚を見た。
次に、出口を塞ごうとする樽を見た。
選べるのは一つだった。
「棚は捨てろ! 先に戸を開ける!」
宗玄は佐吉とともに樽へ太い棒を当て、横へ押しのけた。
油が漏れたが、待ち構えていた職人たちが砂をかぶせる。
川側の戸が開き、蔵の中にいた者たちは外へ逃れた。
父の帳面を積んだ棚は、炎に包まれた。
宗玄は歯を食いしばったが、戻らなかった。
やがて火は、油樽へ燃え移る前に抑えられた。
隣家にも被害はなかった。
老人の姿は消えていた。
白灯が川岸で鳴く。
「にゃあっ!」
小舟が一艘、闇の中を下っていく。
弥七たちは追わなかった。
火の残る町を置いて、闇の川へ飛び出す方が危険だった。
「逃がしたか」
宗玄がつぶやく。
「せやけど、燃やさせへんかった」
弥七は答えた。
夜半、鎮火した油蔵を大人たちが調べた。
焼けた棚の下から、鉄張りの小箱が見つかった。
中には、縁の焦げた一通の文書が残っている。
表には、確かにこう書かれていた。
『下京焼亡ニ関スル内約』
だが、署名の並ぶ最後の一枚だけがなかった。
代わりに、小箱の底へ細長い紙が貼られていた。
『原本を望むなら、六歳の子を連れて来い。
欠けた月は、あの子の前で満ちる』
茶太郎はその文を、自分では読まなかった。
弥七から内容を聞き、しばらく黙っていた。
「ぼくが行けば、原本を出すってこと?」
「出す保証はない」
宗玄が答えた。
「お前を餌にして、俺たちを動かしたいだけだ」
茶太郎は、旅籠へ避難してきた人々へ椀を配った。
炒った米を煮た薄粥に、刻んだ干し菜と少しの塩を加えたものだった。
火を消した者。
家を離れて待っていた者。
煙を吸って咳き込む者には、先に医師がついた。
誰が残月なのか。
原本がどこにあるのか。
まだ答えは見つからない。
それでも、今夜守れた家と、帰る場所を失わなかった人がいる。
「呼ばれたからって、一人では行かない」
茶太郎は言った。
「ぼくを連れて行くかどうかも、残月には決めさせない」
宗玄は、父から受け継いだ鍵を見つめた。
結局、その鍵は最後まで使われなかった。
開いたのは油蔵の扉ではない。
灰屋宗玄が、父の罪から目を逸らさないと決めた道だった。
そして残月が次に指定した場所は——かつて焼け落ちた下京の、誰のものとも決められていない一角だった。




