第223話 「父の署名と、受け継がなかった罪」
――親の罪は継がなくても、その罪から得た物には向き合わなければならない――
灰屋宗玄が残した紙片は、すぐに証拠とはされなかった。
焦げた末尾に残る文字は、
『灰屋——』
それだけである。
灰屋という屋号を持つ者は、宗玄一人ではない。
同族。
先代。
灰屋を名乗った手代。
あるいは、誰かが灰屋へ罪を着せるために書いた偽名。
「紙片一枚で宗玄を縛ったら、偽帳面を信じた者と同じになる」
茶太郎が言うと、弥七は頷いた。
「ほな、紙そのものから確かめるぞ」
焦げた紙片は、水月庵へ運ばれた。
水叟、墨屋宗白、専応、久我家の古文書を知る老僧が立ち会う。
紙を水へ浸したり、火へかざしたりはしない。
光の向きを変え、繊維、厚み、折り目、墨の残り方を見る。
宗白は、箱に残っていた別の証文と紙端を合わせた。
「紙は同じ束から切られとる可能性が高い」
専応は花伝書へ挟まれていた断片を並べる。
「筆跡も似ています。ただ、宗玄殿の現在の手とは違う」
「現在の手を知っておるのか?」
「買い取り証文を置いていきましたから」
かん太が証文の写しを広げた。
宗玄の文字は細く整っている。
一方、焼亡の内約に残る署名は、太く右上がりだった。
水叟が古い取引証文を一通取り出す。
そこには、はっきりと名があった。
『灰屋宗悦』
「宗玄の父や」
宗白が呟く。
灰屋宗悦。
油、紙、材木を扱い、戦のたびに商いを広げた人物。
下京が焼けたあと、持ち主の帰らなかった土地や蔵を安く手に入れた記録も残っている。
「署名したんは、父親か」
佐吉が拳を握る。
「せやけど、今動いとる欠け輪は宗玄の商いと繋がっとる」
「父が始めたことを、子が使っている可能性はある」
水叟は証文を閉じた。
「しかし父の名を知っただけで、子の命令まで証明したことにはならぬ」
その日の夕方、灰屋宗玄は自ら水月庵へ現れた。
護衛は二人だけ。
武器を門前へ預け、茶太郎たちの前へ座る。
「父の名へ辿り着かれましたか」
「知ってたんですか?」
茶太郎が尋ねる。
「父が焼亡のあとに土地を買ったことは知っています。内約そのものを見たのは、父が死んだあとです」
「欠け輪も?」
「名は違いましたが、似た繋がりはありました」
宗玄は隠そうとしなかった。
戦が起きれば、土地の持ち主が逃げる。
荷が止まり、米や油の値が上がる。
そこへ銭を持つ商人が入り、蔵と土地を押さえる。
武家にも寺にも属さない商人同士が、互いの利益を守るために結んだ繋がり。
それが欠け輪の始まりだった。
「あなたが灰月なんですか?」
宗玄はしばらく沈黙した。
「父が、そう呼ばれていました」
「今は?」
「私を同じ名で呼ぶ者もおります」
佐吉が立ち上がりかける。
弥七が腕を出し、止めた。
「六角堂へ火を放ったんは、あんたの命か」
「違います」
「お糸をさらわせたんも?」
「命じておりません」
「井戸へ油を流したんは?」
「それも違う」
「ほな、欠け輪が勝手にしたことやと言うんか」
宗玄は否定しなかった。
「父の代から残った者たちの中には、火事も病も商機としか見ぬ者がいる。私は、彼らを完全には束ねられていません」
「止めようとはしたんですか?」
茶太郎の問いに、宗玄の目がわずかに動いた。
「……しておりません」
部屋の空気が冷えた。
「私の商いに利益をもたらす間は、見ないふりをした。それは認めます」
「命じてへんから、自分は悪くないってこと?」
「そうは言っていない」
宗玄は静かに茶太郎を見返した。
「ただ、私にも言い分はある。米も薬も茶も、力のない者がばらばらに守れば、戦のたびに奪われる。強い商人が一か所へ集め、値と道を管理した方が、流れは止まらぬ」
「その強い商人が間違えたら?」
「代わりがおらぬ。それが弱点でしょうな」
「ぼくらの仕組みは、誰か一人がおらんでも動くようにしてる」
「だから遅い。話し合っている間に、葉は傷み、人は飢える」
宗玄の言葉は、すべて間違いではない。
宇治の公開茶市も、時間が足りなければ開けなかった。
橋の修繕も、三つの封も、確認する人がそろわなければ止まる。
一人が決める仕組みは速い。
多くの者で確かめる仕組みは、遅い。
だが速さだけを求めれば、反対する者の声は消される。
「まだ見えへん未来も、一歩ずつ自分らで描いていくしかないと思う」
茶太郎は答えた。
「遅くても、失敗したら直せるように。強い一人がいなくなっても、みんなが続けられるように」
「理想ですな」
「宗玄さんのやり方も、灰屋がずっと正しいっていう理想やと思います」
宗玄は初めて、返す言葉を失った。
水叟が二人の間へ、二つの空椀を置いた。
茶も湯も入れない。
話が終わるまで、どちらの味にも染まらない椀だった。
「父の罪を、子がそのまま背負う必要はない」
水叟が言う。
「忘れられぬ人や時間も、無理に消さなくてよい。だが、父の罪から得た土地や蔵を使うなら、今の持ち主には説明する責任がある」
宗玄は空椀を見つめた。
「土地をすべて返せと?」
「今住んでいる者を追い出せば、同じことを繰り返す。誰から得て、誰が戻れず、今は誰が暮らしているかを明らかにせよ」
水叟は命じなかった。
ただ、選ぶべき道を示した。
宗玄は長い沈黙のあと、懐から鍵を一つ出した。
「堺の灰屋本蔵。その奥に、父の帳面が残っています」
「焼亡の内約も?」
「署名のある原本はありません。今、欠け輪の急進派が持っているはずです」
「誰がまとめとる?」
弥七が問う。
「名を《残月》と申します。父の古い手代です」
灰月が、焼け跡から利益を生む者。
残月は、その利益を守るためなら火も人質も使う者。
欠け輪を今も動かしているのは、宗玄ではなく残月だった。
「居場所は?」
「今夜、山崎の古い油蔵へ現れます。私が宇治茶の買い取りに成功したか、報告を受けるために」
宗玄は鍵を畳へ置いた。
「私を信用する必要はありません。ただし、残月を捕らえたいなら、私の失敗を利用なさい」
茶丸が鍵へ近づき、匂いを嗅ぐ。
「……ニャ」
罠かもしれない。
だが、真実へ続く道かもしれない。
茶太郎は鍵へ手を伸ばさず、弥七を見た。
「まず、油蔵を外から確かめよう」
父の罪を継がなかった男。
それでも、父の作った仕組みから利益を得てきた男。
灰屋宗玄が差し出した鍵は——残月へ至る入口であると同時に、彼自身の責任を開く鍵でもあった。




