第222話 「三つの茶札と、売れ残った一籠」
――本物であることと、選ばれることは同じではない――
夜明け前、宇治の川辺へ筵が敷かれた。
並べられたのは、七軒の茶農家が持ち寄った茶。
灰屋宗玄が買い取りを申し出た刻限まで、あと半日しかない。
「ただ茶を並べるだけでは、偽物も一緒に並ぶ」
宗次は、農家ごとに籠を分けさせた。
茶太郎とかん太は、籠の前へ三枚一組の木札を置いていく。
一枚目には、茶葉の印。
誰が、どの畑で摘んだか。
二枚目には、火と手の印。
誰が蒸し、揉み、乾かしたか。
三枚目には、舟か馬の印。
誰が、どの道を通って運ぶか。
名を書けない者には、それぞれ違う刻印を用意した。
《宇治三手茶札》。
立派な家印一つで本物を示すのではない。
畑、加工、運搬。
三つの仕事が繋がって、初めて一つの茶になる。
「札ごと偽られたら、どうする?」
近江から来た商人が尋ねた。
「今日は、札を書いた人もここにいます」
茶太郎は答えた。
「畑のことを聞きたかったら、作った人に聞いてください。火入れのことは、揉んだ人に。運ぶ道は、船頭さんに」
「毎回、全員を市へ連れてくるんか?」
「それは無理です。せやから今日は最初の確かめ方を一緒に決めたいんです」
完成した仕組みを押しつけるのではない。
使う商人や、運ぶ者にも不足を見つけてもらう。
柳生で雨に溶けた荷札の失敗を、繰り返さないためだった。
茶市の中央には、三つの釜が据えられた。
使う水は同じ井戸から汲み、大人が一度沸かす。
茶葉は同じ升で量る。
湯を注いでから待つ間も、短い香を一本立ててそろえた。
「茶碗が違うたら、味も違うて感じる」
伊平が、同じ形の白い椀を並べる。
「派手な器で良う見せん。茶そのものを比べてもらう」
ただし、偽茶や黴の疑いがある茶は使わない。
味見して確かめることもしない。
隔離したまま、後で大人たちが入手経路を調べる。
最初に淹れられたのは、日当たりのよい畑の若い葉。
爽やかな香りが立つ。
次は、やや育った葉を丁寧に揉んだ茶。
香りは穏やかだが、日々飲むには十分な味がある。
三つ目は、形の不ぞろいな葉と茎を選別した茶だった。
「これも同じ値で売るんか?」
商人が尋ねる。
茶農家の一人が言葉に詰まった。
自分の茶を低く扱われたくない。
だが、すべてを極上だと言えば、偽物と変わらない。
伊平が茶葉を一つまみ持ち上げる。
「これは悪い茶やない。せやけど、上の二つと同じ香りではない」
宗次も頷いた。
「値を三つに分けよう」
祝いの席や贈り物へ使う茶。
日々の一服に使う茶。
煮出して大勢で飲む、茎や大きな葉の茶。
用途を分け、値も分ける。
高い茶を安く見せない。
手頃な茶を、極上と偽らない。
「安い茶を作った家は、恥ずかしいんか?」
京鈴が尋ねた。
「恥ずかしないよ」
茶太郎が答える。
「高い茶しかなかったら、飲めへん人が増える。毎日飲める茶も要る」
京鈴は一番手頃な茶をすすり、少し考えた。
「これ、うちでも飲めそう」
その一言で、茶農家の強張っていた顔が緩んだ。
取引が始まった。
近江商人の一人は、上等な茶を二籠。
別の商人は、日々の茶を五籠。
山崎の宿は、大勢へ出すための茎茶を三籠買った。
値を下げて全部を手放したわけではない。
茶農家ごとに売り先が分かれたため、一軒の仲買が値を決めることもない。
昼前、灰屋宗玄が姿を現した。
「見事な市ですな」
穏やかな声だった。
宗玄は三手茶札を一枚ずつ確かめ、三種の茶を同じ椀で飲み比べた。
「買い取りの申し出は、必要なかったようで」
「まだ、全部売れたわけやありません」
茶太郎は、残った一籠を見た。
雨の前に摘んだ葉を、火入れしすぎた茶。
飲めない物ではない。
だが香りが弱く、ほかの茶と比べると見劣りする。
茶農家の老人が俯いている。
「本物やのに、売れへんかった……」
茶太郎は、すぐに買い取るとは言わなかった。
情けだけで買えば、次も同じ作り方が続く。
「どうして火を入れすぎたんですか?」
「薪が湿っとってな。火が弱いと思うて、途中で足した。そしたら急に強うなった」
失敗には、理由がある。
茶太郎は伊平とともに、残った葉を確かめた。
黴や異臭はない。
ただ、香りが飛んでいる。
「これを極上の茶として売るんは無理や」
伊平は正直に言った。
「せやけど、濃う煮出して飯や菓子の香りに使うなら試せる」
「料理に逃がすんか」
宗玄が口を挟む。
「逃がすんやないです」
茶太郎は答えた。
「次に同じ失敗をせんよう記録して、それでも残ってる役目を探すんです」
茶太郎は少量だけを買い、残りを無理に引き受けなかった。
まず料理場で安全と使い方を確かめる。
うまくいけば、その用途で改めて値を決める。
茶農家の老人も頷いた。
「次は、薪の乾き具合も札へ残す」
三手茶札に、新しい欄が一つ加わった。
成功した印だけでなく、失敗した理由も残す欄だった。
宗玄は、その様子を静かに見ていた。
「恐ろしい仕組みですな」
「どうして?」
「人が比べ方を覚えれば、私の品も同じように見られる」
宗玄は笑っていた。
だが、目は笑っていない。
「本物の価値を人が決めるなら、名家の印も、大商人の名も、それだけでは通じなくなる」
「それでええと思います」
「いつか、その考えがあなた自身の値打ちも量りますよ」
宗玄は買い取りの証文を破らず、懐へ戻した。
そして茶太郎の前へ、小さな灰色の茶入れを置く。
「市を見せてもろうた礼です」
「受け取れません」
「中身を見てから決めなさい」
宗玄が去ったあと、弥七が布越しに蓋を開けた。
茶は入っていない。
中にあったのは、焦げた紙片だった。
『下京焼亡ニ関スル内約』
失われた一通の、末尾だけ。
そこには、署名の一部が残っていた。
『灰屋——』
かん太が息を呑む。
「宗玄が、欠け輪の親玉なんか?」
「まだ決めたらあかん」
茶太郎は紙片を見つめた。
灰屋の名は宗玄一人のものではない。
父や先代、同族の誰かかもしれない。
偽りの証拠を作る者が、わざと灰屋の名を残した可能性もある。
宗玄は答えを置いていったのではない。
疑いを一つ増やしていったのだ。
茶丸が灰色の茶入れへ鼻を近づけ、低く鳴いた。
「……ニャ」
茶の市は守れた。
だが灰の月は、すでに宇治の内側まで昇っていた。




