第221話 「香りを失った宇治茶と、灰屋の申し出」
――故郷の名は、立派な印ではなく、積み重ねた仕事が守る――
茶太郎が宇治へ戻った朝、茶問屋の前に破れた茶俵が投げ出されていた。
「これが宇治茶や言うんか!」
近江から来た商人が、怒鳴り声を上げる。
「色は黒ずみ、香りもない。湯を注いだら、黴臭うて飲めたもんやない!」
俵には、宇治の茶師が使う水輪の印が押されている。
送り主として記されていたのは——茶太郎の父、宗次だった。
「わしは、こんな荷を出してへん」
宗次は俵の前へ座り込んだまま、低い声で答えた。
「言い逃れするんか!」
「違う。出してへん物を、出したとは言えへん」
母の志乃は、茶太郎を自分の後ろへ下がらせた。
俵の中身が安全とは限らない。
茶太郎は茶葉へ触らず、匂いも近くで嗅がない。
まず、俵を普段の茶から離す。
敷物も籠も共用しない。
茶に黴や異物がある可能性を考え、子どもたちは近づけなかった。
伊平が口元を布で覆い、茶葉を竹箸で少量取り出した。
「新しい葉だけやない」
葉の形。
茎の太さ。
揉み方。
乾き具合。
伊平は一つずつ確かめる。
「去年の古葉と、乾かし損ねた葉が混じっとる。ほかの土地の葉も入っとるかもしれん」
「宇治の茶やないと、味で分かる?」
茶太郎が尋ねた。
「味だけで決めたらあかん」
伊平は首を横に振った。
「畑が違えば、同じ宇治でも味は変わる。火入れや保存でも変わる。まず、誰が摘み、誰が揉み、どの荷へ入れたかを確かめるんや」
宗次は帳面を開いた。
問題の俵に記された出荷日は、三日前。
だが、その日は雨だった。
「雨の日は摘んでへん。葉が濡れたままでは扱いにくいから、畑仕事を止めた」
茶農家たちも口々に証言する。
「うちも休んどった」
「揉み場の竈にも火を入れてへん」
「その日は、茶俵を運ぶ舟も出てへん」
印は本物らしく見える。
しかし、その日に茶を作った者が一人もいなかった。
茶太郎は俵の縄を見つめた。
宇治から出す茶俵には、結び目の内側へ細い色糸を一本通している。
茶農家ごとに色を変え、誰の葉が入っているか分かるよう、縁が決めたものだった。
「この俵、色糸がない」
かん太も頷く。
「縄を結ぶ形だけ真似たんや」
茶丸が、俵から離れた場所で低く鳴く。
「……ニャ」
印。
縄。
俵。
外から見える物は、すべて似せられる。
だが、なぜ色糸を通すのか、偽物を作った者は知らなかった。
怒っていた近江商人は、少しずつ声を落とした。
「ほな、わしは誰から買うたんや……」
「どこで受け取ったんですか?」
茶太郎が尋ねる。
「山崎の市や。宇治の荷が安う出ると聞いた」
「売った人の名前は?」
「仲買を名乗っとったが、名札は見てへん。久我家の朱印があったから……」
また、本物の印だった。
灰月は一つの印を使い、米、薬、水だけでなく、宇治茶の信用まで傷つけようとしている。
昼までに、似た茶俵がほかにも七つ見つかった。
すべて山崎か鳥羽を通っている。
中には黴の疑いがある物もあり、飲用には回さず隔離した。
偽物が出たからといって、宇治茶すべての値を下げるわけにはいかない。
しかし商人たちは買い付けを止め始めた。
「本物かどうか分からん物へ、今までの銭は出せへん」
「次の市まで様子を見る」
茶農家の顔が曇る。
摘んだ葉は、いつまでも置いておけない。
売れなければ、働いた者への支払いも止まる。
その日の夕刻、一台の立派な荷車が宇治へ入った。
降りてきたのは、灰色の小袖を着た五十前後の商人だった。
髪も髭も整い、物腰は穏やかである。
「災難でしたな」
男は偽茶の俵を一目見て、深くため息をついた。
「堺で油、紙、薬種を扱う灰屋宗玄と申します」
灰屋。
水売りの文に押されていた、灰を被った月の印。
茶太郎の背中へ、冷たいものが走る。
だが、宗玄の衣にも荷車にも、欠け輪の印はない。
「このままでは、宇治の茶農家が干上がるでしょう」
宗玄は宗次へ一枚の証文を差し出した。
「今ある茶を、私がすべて買い取りましょう。値はこれまでの半分になりますが、売れずに腐らせるよりよい」
「全部を?」
「ええ。偽物が収まるまで、灰屋が責任を持って売り先を探します」
一見すれば、救いの申し出だった。
買い手を失った茶農家には、今すぐ必要な銭が入る。
だが、宇治の茶が灰屋一軒へ集まれば、次から値を決めるのは茶農家ではなく宗玄になる。
松永久秀なら、この仕組みをどう見るだろう。
茶太郎は妙覚寺で聞いた言葉を思い出した。
信用を壊したあとへ、高値の商品を置く。
今度は反対だった。
信用を壊したあとへ、安い買い値を置いている。
「返事は、いつまでですか?」
茶太郎が尋ねた。
宗玄は初めて、六歳の子どもへ目を向けた。
「明朝までです」
「早すぎます」
「傷みやすい物の商いは、時が命ですからな」
「考える時間をなくすためやなくて?」
周囲の空気が張り詰める。
宗玄は怒らなかった。
むしろ、面白そうに目を細めた。
「噂どおり、よく物を見るお子や」
その視線が、茶丸へ移る。
「猫まで連れて商いをするとは。いずれ大きな商人になるかもしれませんな」
「ぼくは、みんなの茶を自分の物にしたくない」
「ならば、明日の朝までに別の買い手を見つけることです」
宗玄は証文を置き、宿へ戻っていった。
その夜、茶農家たちは意見を分けた。
半値でも売るべきだという者。
宗玄を信用できないという者。
今までの値に固執して、全部を失う方が愚かだという者。
茶太郎にも、すぐ答えは出せない。
「安う売らへんって言うだけでは、皆の明日の飯を守れへん」
宗次が言った。
「相手が悪いと証明できへんうちは、怒りだけで断ることもできん」
茶太郎は、隔離された七つの偽茶俵と、本物の茶が並ぶ蔵を見つめた。
答えが見つからなくても、探しながら歩けばいい。
しかし今回は、朝までしかない。
そのとき、アオバトのシオが蔵の梁へ降りた。
脚には、山崎からの文。
『合せ通り札を見た近江商人三名、宇治茶の直接確認を希望。
ただし、本物を見分ける公開の場を求む』
買い手は、消えていなかった。
必要なのは値下げではない。
本物が、どの手を通って生まれたかを、偽物より先に見せることだった。
茶太郎は振り返る。
「明日の朝、市を開こう」
灰屋宗玄が買い占めを始める、その前に。
宇治の茶農家自身が、本物の茶を売るための市を。




