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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第220話 「飲まない井戸と、三色の水札」

 ――澄んで見える水が、安全とは限らない――


 妙覚寺界隈で最初の異変が見つかったのは、夜明け前だった。


「井戸の水が、苦い匂いする!」


 水汲みに来た女が、桶を地面へ置いて叫んだ。


 水は澄んでいる。

 濁りも、浮いている物も見えない。

 それでも、いつもとは違う青臭さがあった。


「飲んだ人は?」


 曲直瀬道三まなせ・どうさんが尋ねる。


「まだおらんと思う。最初に汲んだんは、うちや」


「口をつけてへんな?」


「匂いを嗅いだだけや」


 道三は、すぐに井戸を閉じさせた。


 原因が分かるまで飲まない。

 料理にも薬にも使わない。

 動物にも与えない。

 縄を張り、大きな赤い木札を掲げる。


『飲むな』


 字が読めない者にも分かるよう、割れた椀の印を大きく描いた。

 だが、異変は一つの井戸だけではなかった。

 別の井戸には油のような膜。

 さらに別の井戸には、欠け輪の印を描いた小袋が投げ込まれている。


 昼までに、


『下京の井戸は、すべて毒を入れられた』


 という噂が広がった。


 人々は井戸から離れ、水を売る者の周囲へ集まる。


「安全な山水や! 一桶十文!」


「夕方には二十文になるぞ!」


 昨日まで一文もしなかった水が、急に高値で売られていた。


 松永久秀まつなが・ひさひでが、その様子を見て目を細める。


「偽薬と同じや。信用を壊したあとへ、高値の商品を置く」


「ほな、売っとる水を奪いますか?」


 三好長逸みよし・ながやすが問う。


「中身を確かめず配ったら、同じことになる。売り手を捕らえるより先に、町が飲める水を用意せなあかん」


 井戸の確認は、三つの組に分けられた。


 井戸そのものを見る者。

 その周囲の厠、排水溝、油置き場を調べる者。

 その水を飲んだ家に、腹痛や吐き気が出ていないか聞く者。


 水の見た目だけでは決めない。

 同じ柄杓や桶を、別の井戸へ持ち込まない。

 調べるために汲んだ水も、料理場へ運ばない。


 茶太郎とかん太は井戸へ近づかず、寺の境内で札を作った。


 赤札。

 飲用も料理も禁止。


 黄札。

 異変は見つからないが、確認が済んでいないため、飲用には使わない。


 青札。

 井戸周辺を大人が確認し、異常の訴えがなく、当面は煮沸して使う。


「青でも、そのまま飲んだらあかんの?」


「うん」


 茶太郎は答えた。


「青は絶対に安全って意味やない。今分かる範囲で使う井戸って意味」


 尾びれの長い小魚の姿をした水霊、ナギが井戸の縁から水面を見つめる。


「……ながれ……にぶい……した……よどんでる……」


「毒かどうか分かる?」


「……わからない……でも……いつもの……ながれ……ちがう……」


 水霊が読めるのは、水の流れや淀み。


 人の身体へ害があるかまで、すべて見抜けるわけではない。

 ナギの言葉は調査を始める手掛かりにはなる。

 安全を決める最後の答えにはしなかった。


 昼過ぎ、伏見から水を積んだ荷車が到着した。


 御香宮神社の石井から分けてもらった御香水である。

 神水だから何をしても安全、という扱いはしない。


 清潔な甕へ入れ、蓋をして運ぶ。

 到着した数と、誰が受け取ったかを記録する。

 病人、幼子、妊婦、薬の調合を優先し、残りを炊事場へ回した。


「一人一桶は無理やな」


 茶太郎が甕の数を見て言う。


「せやから、井戸を直すまでの繋ぎや」


 明智十兵衛あけち・じゅうべえが帳面を開いた。


「伏見から運び続ければ、運賃も人手も足りなくなる。水の道は、町の中で戻さなあかん」


 調査の結果、三つの異変は別々の原因だった。


 青臭い井戸には、砕いた草と苦い薬草を詰めた袋が沈められていた。

 油膜の井戸には、近くの空き家から細い溝が掘られ、廃油が流されていた。

 欠け輪の袋が入った井戸は、袋だけで中身は灰だった。


「三つ目は、怖がらせるためだけか」


 弥七やしちが袋を布越しに持ち上げる。


「毒がなくても、印が浮いとれば誰も飲まん」


 一方で、残る井戸の一つには人の仕業ではない問題があった。

 崩れた排水溝から汚れた水が染み込み始めている。


「欠け輪の仕業を探すだけやったら、こっちを見落とすところやった」


 宗白が言った。


 悪意による汚染。

 壊れた町の構造による汚染。

 どちらも、人の身体を害することに違いはない。


 草袋や廃油を取り除いただけで、すぐ青札には戻さない。

 井戸の水を汲み出し、井戸側と周囲を職人が点検する。


 排水溝を直し、一定の間、匂い、濁り、利用者の体調を記録する。

 原因の分からない井戸は、赤札のまま残した。


 夕方、確認を終えた青札の井戸から水を汲み、寺の大釜で沸かした。


 火の管理は大人が行う。

 茶太郎は冷ました白湯を、一人分ずつ椀へ注いだ。

 特別な味はない。

 霊力を込めたとも言わない。


 ただ、町の者が見張り、確かめ、沸かした水だった。


「水だけなん?」


 京鈴きょうすずが椀を覗く。


「今日は、水だけでええと思う」


 茶太郎は自分から飲まず、まず道三の確認を受けた。

 それから炊事に関わった大人が飲み、異常がないことを確かめながら、必要な者へ少しずつ配る。


 水を売っていた者たちは、客を失い始めた。

 雪と影猫衆が遠くから後を追う。

 売り手の一人は、空き寺へ戻らなかった。

 町外れの染物屋へ入り、床下から銭箱を取り出した。


 その中には水売りの稼ぎと、細く巻かれた一通の文がある。


『井戸の信用が崩れ次第、妙覚寺の薬棚を買い取ること』


 文の差出人に名はない。

 代わりに、灰を被った月の印が押されていた。

 捕らえられた水売りは、その印を見て震えた。


「欠け輪の上には、まだおる……」


「誰や?」


 弥七が問う。


「名は知らん。皆、“灰月はいづき”と呼んどる。焼け跡から銭を生む御方や」


 欠け輪は、組織のすべてではなかった。


 米、火、薬、水。


 暮らしの土台が崩れるたび、その後ろで利益を得る者。

 その中心にいる《灰月》は、すでに次の品へ手を伸ばしていた。

 水売りの文の裏には、ただ一文字。


『茶』


 次に狙われるのは——茶太郎の故郷、宇治だった。


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『茶太郎がゆく』
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