第219話 「同じ顔の薬包と、飲ませない勇気」
――助けたいと焦るときほど、分からない物を使わない――
妙覚寺界隈へ着いた茶太郎たちを待っていたのは、火でも刀でもなかった。
同じ形をした、二つの薬包だった。
「どちらも、うちから出した正丸やと書いてある」
曲直瀬道三が、机の上の包みを睨んでいる。
薄墨色の外紙。
黒い三本線。
腹を下した者へ渡すという印。
包みを結ぶ麻紐まで、よく似ていた。
「片方は、伏見から届いた物。もう片方は、今朝、寺の門前へ置かれていた箱から出た物や」
茶太郎が手を伸ばしかけると、道三が止めた。
「触れたらあかん。何が付いとるか分からへん」
偽物と思われる薬包は、食事を作る場所から離した部屋へ移されていた。
子どもは近づかない。
道三と、薬草を扱い慣れた者だけが中身を確かめる。
明智光秀は、受け取った日時と場所を帳面へ記した。
「門前の箱を見つけたのは?」
「掃除に出た小僧二人。ただし、開けたのは寺役や」
「箱に触れた者の名を、順に残しましょう。疑うためやなく、どこで入れ替わったか確かめるためです」
松永久秀は、二つの外紙を裏返した。
「偽物の方が、紙がきれいやな」
「偽物なのに?」
かん太が尋ねる。
「人は、汚い本物より、きれいな偽物を信じることがある」
久秀は紐の結び目を指した。
「伏見から来た包みは、引けば一度でほどける。病人のそばで刃物を使わんでもええようにしてある。こっちは見た目だけ真似て、固う結んどる」
外側は似せられても、なぜその形にしたのかまでは理解していない。
道三が本物の正丸を一つ開く。
黄檗や黄連を用いた、強い苦味のある丸薬。
症状を確かめず、誰にでも飲ませる薬ではない。
次に偽包みを開いた。
中から出てきた丸薬は、色がわずかに薄い。
表面には粗い粉が浮いている。
「同じ物ではない」
道三は口へ入れなかった。
少量を割り、色、匂い、崩れ方を確かめる。
「薬草らしい苦い匂いはする。せやけど、何をどれだけ混ぜたか分からん。効かへんだけならまだしも、身体を傷める物が入っとるかもしれん」
「全部捨てますか?」
光秀が問う。
「いや。封じて残す。誰がどう作ったか調べる証になる」
だが、問題は偽物だけではなかった。
門前には、すでに薬を求める人が並んでいる。
腹を下した者。
熱のある者。
傷の痛みに耐える者。
偽物が混じった可能性を考えれば、正丸だけでなく、ほかの薬包も一度止めなければならない。
「今ある本物まで渡さへんのですか?」
患者を連れた母親が声を荒らげた。
「子どもが苦しんどるんや!」
「本物と確かめられた物は使う」
道三は静かに答えた。
「せやけど、印だけを信じて渡すことはできへん。まず、わしが一人ずつ診る」
「待ってる間に悪うなったら、どうするんや!」
誰も、すぐには答えられなかった。
助けたい。
薬を渡したい。
だが、焦って分からない物を飲ませれば、その行為が新しい害になる。
茶太郎は、柳生で源助へ粥を作ったときのことを思い出した。
正丸だけで助かったのではない。
煮沸した水。
食べられる量の粥。
休息。
土地の医師による経過の確認。
そのすべてが必要だった。
「薬を確かめてる間、ぼくにできることはありますか?」
茶太郎が道三へ尋ねる。
「水を一度沸かして冷ます。飲める者には少しずつ。吐いている者や意識の弱い者には、勝手に飲ませず呼びに来てくれ」
「食べ物は?」
「食べられるか、先に診る。皆へ同じ物を出したらあかん」
茶太郎は寺の炊事場へ入った。
料理で病を治すとは言わない。
薬の代わりになるとも言わない。
道三が食べてもよいと判断した者へ、米を多めの水で柔らかく煮た薄い粥を用意する。
味はごく薄くする。
《水霊待ち粥》。
薬を待つ間、身体へ無理をさせないための料理だった。
「何も入ってへんみたいや」
椀を受け取った少年が言う。
「今は、それでええんやって」
茶太郎は答えた。
「元気になったら、もっと美味しいの作る」
少年は一匙だけ食べ、疲れたように目を閉じた。
茶丸が枕元から少し離れた場所へ座る。
白灯は薬棚へ近づかず、出入口を見張った。
午後までに、保管されていた薬包の確認が終わった。
本物には、材料を仕込んだ者と包んだ者、二つの印がある。
偽物には、外側の久我家印しかない。
「一つの立派な印より、二つの地味な印の方が信用できる」
光秀が帳面へ書き留める。
「誰か一人の権威やなく、二人の仕事が互いを確かめるからや」
久秀は偽物の箱に入っていた品書きを見ていた。
「こっちの狙いは、毒で人を殺すことだけやないかもしれん」
「どういうことです?」
「偽物が出回れば、正丸そのものが信用されへんようになる。妙覚寺の薬を止めたところで、別の薬売りが倍の値を付ける」
実際、門前ではすでに噂が流れていた。
『妙覚寺の薬は偽物』
『伏見の正丸を飲むと死ぬ』
そして同じ辻で、見知らぬ薬売りが高値の丸薬を売り始めている。
欠け輪は、薬を盗むだけではない。
安く分けられる薬の信用を焼き、そのあとへ高値の商品を置こうとしていた。
夕暮れ、日置雪が門前の薬売りを追った。
捕らえはしない。
どこへ戻るかを遠くから確かめる。
薬売りは二つの路地を抜け、空き寺へ入った。
その裏口から出てきた荷車には、欠け輪の印が付いた箱が積まれている。
行き先を示す木札には、こう刻まれていた。
『次は、井戸』
光秀の顔色が変わった。
「薬を疑わせた次に、水まで疑わせるつもりか」
料理も薬も、人の身体へ入る前には水を使う。
井戸の信用が失われれば、下京の暮らしそのものが止まる。
茶太郎は《水霊待ち粥》の鍋を見つめた。
薬を飲ませない勇気の次に必要なのは——安心して飲める水を、町の手で守る仕組みだった。




