第218話 「焼亡の内約と、花伝書に挟まれた灰」
――火を起こした者だけでなく、火を待っていた者がいる――
六角堂の火が消えた翌朝。
町人たちは、焼けた町家の前へ集まっていた。
黒くなった柱。
崩れた屋根。
水を吸った畳。
それでも、隣家との境に塗られた土壁は残っている。
壁の向こうには、昨夜と変わらない暮らしがあった。
「一軒で止まった……」
墨屋宗白が、煤けた壁へ手を当てた。
「水桶の列だけやない。この壁を塗った左官も、鎹を打った甚八も、避難路を決めた町組も、みんなで止めた火や」
宗白は焼け跡へ踏み込ませる前に、決まりを作った。
倒れそうな柱を大工が確かめる。
灰の中に金物や割れた器がないか、大人が調べる。
子どもは縄の内側へ入らない。
井戸へ流れ込んだ灰や油は取り除き、水をそのまま飲まない。
使える物を急いで拾うより、二度目の怪我や病を防ぐ方が先だった。
茶太郎は境内の竈で、火消しに加わった人々の食事を作った。
米は少なめ。
麦を多くし、蕪と干し茸を加える。
味噌を溶き、生姜をほんの少しだけ利かせた。
《水霊火止め麦味噌湯》。
「火を止める料理なん?」
京鈴が尋ねる。
「火事を消す力はないよ。火を消した人の身体を、ゆっくり温めるだけ」
昨夜の煙を吸って咳をする者には、無理に食べさせない。
息苦しさや強い頭痛がある者は、土地の医師へ診せる。
料理でできることと、できないことを分ける。
それもまた、命を守る決まりだった。
堂内では、三つ目の箱に残された証文が調べられていた。
抜き取られた一通の題は、
『下京焼亡ニ関スル内約』
天文法華の乱で下京が焼ける前後、何者かが交わしたらしい文だった。
「本当に、火をつける約束やったんでしょうか」
三好長逸が尋ねる。
「題だけでは決められん」
水叟は答えた。
「戦の火か、放火か、失火か。それすら、この一通だけでは分からぬ」
「けど、敵はこれを欲しがった」
茶太郎は、空になった箱の底を見つめる。
「知られたら困ることが、書いてあるんやと思う」
そのとき、専応(せんけい)が古い竹筒を抱えて現れた。
「花の道に、関わる物かもしれません」
竹筒の中には、池坊に伝わる花の心得を書いた紙が収められている。
専応が修行の中で書き留め、後の者へ残そうとしていた花伝書だった。
「火の夜、六角堂へ逃げ込んだ一人の武士が、この竹筒を預けました」
武士は腹に傷を負い、夜明けを待たずに息を引き取った。
名は語らなかった。
ただ、
『花の教えなら、争う者もすぐには焼かぬ』
そう言って、折り畳んだ一枚の紙を花伝書へ挟んだという。
「中を見なかったんですか?」
かん太が聞く。
「花伝書そのものを守ることに必死でした。紙が一枚増えていると気づいたのは、ずっと後です」
専応は竹筒から、灰色に変色した紙を取り出した。
水や火を浴び、端は欠けている。
文字も半分ほどしか残っていない。
それでも、いくつかの文は読めた。
『焼亡ののち、主なき地を預かること』
『蔵より出た米、油、鉄は、定めた商人へ渡すこと』
『戻り来る者には、負債をもって旧地を渡さぬこと』
『証を持つ者は、欠け輪の印をもって互いに認めること』
宗白の指先が震えた。
「火を起こす約束やない」
「ああ」
水叟が静かに頷く。
「火のあとで、何を奪うかを決めた内約や」
戦で家を失った者。
宗派を理由に追われた者。
帰る道を閉ざされた者。
その土地、蔵、商品を、持ち主がいなくなったものとして分ける。
火がどこから出てもよい。
町が焼ければ、自分たちが得をする。
だから火を防がない。
避難路を塞ぐ。
救いの米を止める。
戻ってきた者を、借金や偽文書で追い払う。
それが《欠け輪》だった。
「今の救恤蔵を壊したがる理由も同じや」
宗白が言った。
「食べ物を分け、帰る場所を残し、土地の記録を皆で確かめる仕組みが広がったら、焼け跡を好きに分けられへん」
茶太郎は、灰童子のカイを見た。
カイは焼けた家々の灰から生まれた。
誰にも記録されなかった名を、忘れないでほしいと願っている。
『家……なくなった。でも、人、いた』
「うん」
茶太郎は頷いた。
「焼けたからって、誰のものでもなくなるわけやない」
水叟は、花伝書の断片を長く見つめていた。
「この内約に、署名を求められた者がおった」
佐吉が息を呑む。
「その者は拒んだ。戦の最中でも、逃げた領民の土地を勝手に売ることだけは認めなかった」
「その人は、どうなったんですか?」
茶太郎が尋ねる。
「城を失い、死んだことにされた」
水叟の声は穏やかだった。
だが、膝の上の拳だけが強く握られている。
「ぼく、その人に会ってみたかった」
水叟は茶太郎を見た。
ほんの一瞬、何かを言いかける。
しかし口にしたのは、別の言葉だった。
「会えたなら、叱ってやるとよい。生きているのに、死んだふりを続ける臆病者だと」
茶太郎は首を横に振った。
「理由を聞いてから決める」
水叟の拳が、わずかに緩んだ。
専応は、焼け残った柳の枝を一輪挿しへ立てた。
枝の半分は焦げている。
だが先端には、小さな緑の芽が残っていた。
「花伝は、美しい花だけを伝えるものではありません」
専応は、内約の断片を新しい紙で挟み、竹筒へ戻した。
「何が焼かれ、何が残ったのか。それもまた、次へ渡すべきものです」
欠け輪の内約には、まだ署名者の名がない。
敵が持ち去った一通にだけ、名が記されているのだろう。
だが、こちらにも残ったものがある。
花伝書の断片。
久我家の古い証文。
火を生き延びた者たちの記憶。
そして、帰る場所を守ろうとする町の意思。
夕刻、焼け跡を調べていた白灯が、一枚の薄い木札を見つけた。
片面には欠け輪。
裏面には、三つの地名。
下京。
山崎。
そして——妙覚寺。
茶太郎の顔が強張った。
妙覚寺界隈には、医食同源の縁で知り合った曲直瀬道三、明智光秀、松永久秀らがいる。
欠け輪は、火と米の次に——薬の道へ手を伸ばそうとしていた。




