↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
PR
226/318

第218話 「焼亡の内約と、花伝書に挟まれた灰」

 ――火を起こした者だけでなく、火を待っていた者がいる――


 六角堂の火が消えた翌朝。

 町人たちは、焼けた町家の前へ集まっていた。


 黒くなった柱。

 崩れた屋根。

 水を吸った畳。


 それでも、隣家との境に塗られた土壁は残っている。

 壁の向こうには、昨夜と変わらない暮らしがあった。


「一軒で止まった……」


 墨屋宗白すみや・そうはくが、煤けた壁へ手を当てた。


「水桶の列だけやない。この壁を塗った左官も、鎹を打った甚八も、避難路を決めた町組も、みんなで止めた火や」


 宗白は焼け跡へ踏み込ませる前に、決まりを作った。


 倒れそうな柱を大工が確かめる。

 灰の中に金物や割れた器がないか、大人が調べる。

 子どもは縄の内側へ入らない。

 井戸へ流れ込んだ灰や油は取り除き、水をそのまま飲まない。

 使える物を急いで拾うより、二度目の怪我や病を防ぐ方が先だった。


 茶太郎は境内の竈で、火消しに加わった人々の食事を作った。

 米は少なめ。

 麦を多くし、蕪と干し茸を加える。

 味噌を溶き、生姜をほんの少しだけ利かせた。


 《水霊火止め麦味噌湯》。


「火を止める料理なん?」


 京鈴きょうすずが尋ねる。


「火事を消す力はないよ。火を消した人の身体を、ゆっくり温めるだけ」


 昨夜の煙を吸って咳をする者には、無理に食べさせない。

 息苦しさや強い頭痛がある者は、土地の医師へ診せる。

 料理でできることと、できないことを分ける。


 それもまた、命を守る決まりだった。


 堂内では、三つ目の箱に残された証文が調べられていた。

 抜き取られた一通の題は、


『下京焼亡ニ関スル内約』


 天文法華の乱で下京が焼ける前後、何者かが交わしたらしい文だった。


「本当に、火をつける約束やったんでしょうか」


 三好長逸みよし・ながやすが尋ねる。


「題だけでは決められん」


 水叟は答えた。


「戦の火か、放火か、失火か。それすら、この一通だけでは分からぬ」


「けど、敵はこれを欲しがった」


 茶太郎は、空になった箱の底を見つめる。


「知られたら困ることが、書いてあるんやと思う」


 そのとき、専応せんおう(せんけい)が古い竹筒を抱えて現れた。


「花の道に、関わる物かもしれません」


 竹筒の中には、池坊に伝わる花の心得を書いた紙が収められている。

 専応せんおうが修行の中で書き留め、後の者へ残そうとしていた花伝書だった。


「火の夜、六角堂へ逃げ込んだ一人の武士が、この竹筒を預けました」


 武士は腹に傷を負い、夜明けを待たずに息を引き取った。

 名は語らなかった。


 ただ、


『花の教えなら、争う者もすぐには焼かぬ』


 そう言って、折り畳んだ一枚の紙を花伝書へ挟んだという。


「中を見なかったんですか?」


 かん太が聞く。


「花伝書そのものを守ることに必死でした。紙が一枚増えていると気づいたのは、ずっと後です」


 専応せんおうは竹筒から、灰色に変色した紙を取り出した。


 水や火を浴び、端は欠けている。

 文字も半分ほどしか残っていない。

 それでも、いくつかの文は読めた。


『焼亡ののち、主なき地を預かること』


『蔵より出た米、油、鉄は、定めた商人へ渡すこと』


『戻り来る者には、負債をもって旧地を渡さぬこと』


『証を持つ者は、欠け輪の印をもって互いに認めること』


 宗白の指先が震えた。


「火を起こす約束やない」


「ああ」


 水叟が静かに頷く。


「火のあとで、何を奪うかを決めた内約や」


 戦で家を失った者。

 宗派を理由に追われた者。

 帰る道を閉ざされた者。

 その土地、蔵、商品を、持ち主がいなくなったものとして分ける。


 火がどこから出てもよい。

 町が焼ければ、自分たちが得をする。

 だから火を防がない。

 避難路を塞ぐ。

 救いの米を止める。

 戻ってきた者を、借金や偽文書で追い払う。


 それが《欠け輪》だった。


「今の救恤蔵を壊したがる理由も同じや」


 宗白が言った。


「食べ物を分け、帰る場所を残し、土地の記録を皆で確かめる仕組みが広がったら、焼け跡を好きに分けられへん」


 茶太郎は、灰童子のカイを見た。

 カイは焼けた家々の灰から生まれた。

 誰にも記録されなかった名を、忘れないでほしいと願っている。


『家……なくなった。でも、人、いた』


「うん」


 茶太郎は頷いた。


「焼けたからって、誰のものでもなくなるわけやない」


 水叟は、花伝書の断片を長く見つめていた。


「この内約に、署名を求められた者がおった」


 佐吉が息を呑む。


「その者は拒んだ。戦の最中でも、逃げた領民の土地を勝手に売ることだけは認めなかった」


「その人は、どうなったんですか?」


 茶太郎が尋ねる。


「城を失い、死んだことにされた」


 水叟の声は穏やかだった。

 だが、膝の上の拳だけが強く握られている。


「ぼく、その人に会ってみたかった」


 水叟は茶太郎を見た。

 ほんの一瞬、何かを言いかける。

 しかし口にしたのは、別の言葉だった。


「会えたなら、叱ってやるとよい。生きているのに、死んだふりを続ける臆病者だと」


 茶太郎は首を横に振った。


「理由を聞いてから決める」


 水叟の拳が、わずかに緩んだ。


 専応せんおうは、焼け残った柳の枝を一輪挿しへ立てた。

 枝の半分は焦げている。

 だが先端には、小さな緑の芽が残っていた。


「花伝は、美しい花だけを伝えるものではありません」


 専応せんおうは、内約の断片を新しい紙で挟み、竹筒へ戻した。


「何が焼かれ、何が残ったのか。それもまた、次へ渡すべきものです」


 欠け輪の内約には、まだ署名者の名がない。

 敵が持ち去った一通にだけ、名が記されているのだろう。


 だが、こちらにも残ったものがある。


 花伝書の断片。

 久我家の古い証文。

 火を生き延びた者たちの記憶。


 そして、帰る場所を守ろうとする町の意思。


 夕刻、焼け跡を調べていた白灯あかりが、一枚の薄い木札を見つけた。


 片面には欠け輪。

 裏面には、三つの地名。


 下京。

 山崎。

 そして——妙覚寺。


 茶太郎の顔が強張った。


 妙覚寺界隈には、医食同源の縁で知り合った曲直瀬道三、明智光秀、松永久秀らがいる。

 欠け輪は、火と米の次に——薬の道へ手を伸ばそうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
面白いと思っていただけたら、ぜひブックマークや評価(★)をお願いします!
『茶太郎がゆく』
style=
目次からブックマークをお願いします
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。