第217話 「火の夜と、名を問わぬ水桶」
――守る者の名より、差し出された手が先に人を救う――
六角堂周辺の三軒の空き家へ、見慣れない油樽が運び込まれていた。
だが、すぐに踏み込むことはできなかった。
「樽を運び出す途中で火を放たれたら、通り一面へ油が広がる」
墨屋宗白が町の絵図を睨む。
「それに、三軒だけとは限らへん」
日置雪が続けた。
「見つけさせるための樽かもしれん。人を集めて、別の場所へ火をつけるための囮や」
まず、住民を静かに移す。
火事だとは知らせない。
家の修繕と井戸掃除を理由に、老人、病人、幼子から六角堂の境内へ移ってもらう。
町組は通りごとに人を分けた。
水桶を運ぶ者。
井戸から水を汲む者。
屋根や軒へ水を掛ける者。
避難路を照らす者。
火を扱う竈を消して回る者。
全員が火元へ駆け込めば、道が塞がる。
役目を分け、合図があるまで持ち場を離れない。
茶太郎たち子どもは、六角堂の境内に残った。
避難してきた者の数を確かめ、温かな白湯を渡す。
危険な樽へ近づくことも、火消しへ加わることも許されない。
「ぼくらも水桶を運べるよ」
かん太が言った。
「人が走る道で転んだら、桶だけやなく人まで止めてしまう」
弥七は厳しく答えた。
「ここで名前を確かめる方が大事や。逃げ遅れた者がおらんか分かる」
京鈴は、境内へ来ようとしなかった。
焼け跡で身につけた耳を頼りに、町の建物を一軒ずつ見て回っている。
「木の音を聞くだけや。中には入らへん」
そう言い残し、白灯とともに路地を歩く。
灰童子のカイも、竈の灰から小さな顔を出した。
『火……来る。家を食べる火……』
「どこから?」
茶太郎が尋ねる。
カイは震える炭の指で、三軒の空き家ではなく、六角堂の北側を指した。
『油の匂いは三つ。でも、怒ってる火は……あっち』
霊は火を消せない。
だが、人が気づかない熱や、灰に残った意図を感じることはできる。
弥七はカイの言葉だけで兵を動かさなかった。
雪と影猫衆を北側へ送り、確かめさせる。
茶丸が軒下に潜り込み、白灯が屋根へ上がった。
しばらくして、雪が戻る。
「北の古紙小屋や。壁の隙間へ、油を吸わせた縄が通してある」
縄の先は、無人の物置を経て細い路地へ続いていた。
離れた場所から火をつけられる仕掛けだった。
「樽三軒へ人を集めて、その背中側から燃やすつもりか」
宗白はすぐに持ち場を変えた。
だが、すべての人を北へ回さない。
三軒の樽にも見張りを残す。
油縄は大人たちが途中で切り、火元から離した。切った縄は砂と土を入れた桶へ収める。
樽を調べる作業は、油を扱い慣れた商人と町役だけで行われた。
一軒目は水。
二軒目も水。
「やっぱり囮か」
三軒目の樽だけが、本物の油だった。
その最も奥に、筵で包まれた重い箱が隠されている。
「三つ目の箱や!」
佐吉が声を上げる。
箱には久我家の本物の印と、古い証文が入っているはずだった。
だが、その瞬間——。
六角堂の南から、半鐘が鳴った。
火が上がったのは、樽のある空き家ではない。
避難済みと思われていた、細長い町家の奥だった。
黒い煙が、屋根の隙間から噴き出している。
「箱は置け!」
弥七が叫ぶ。
「人を確かめるぞ!」
佐吉の手が箱へ伸びたまま止まる。
これを失えば、久我家の名を晴らす証も、旧い荷道の記録も敵へ戻るかもしれない。
それでも佐吉は、箱へ背を向けた。
「住人の数は!」
「四人。三人は境内におる!」
かん太が避難帳を見て答える。
「一人足りへん。足の悪いお婆さんや!」
京鈴が煙の上がる町家へ向かって走り出した。
弥七が止めるより先に、少女は家の前で立ち止まる。
中へは入らない。
耳を澄ませ、焼けた鈴を強く握る。
「奥やない……隣の納戸。床を叩いてる!」
町組の男二人が、土壁側から納戸へ回った。
戸は熱で開かない。
甚八が鎹と梃子を使い、戸板を外す。
中から、足を傷めた老婆が助け出された。
その直後、奥の梁が崩れた。
京鈴が音を聞き分けなければ、間に合わなかった。
火は隣家へ移ろうとしている。
だが、厚く塗り直した土壁が炎を一度押しとどめた。
そのわずかな時間に、町組の水桶が列を作る。
井戸から通りへ。
通りから梯子の下へ。
空になった桶は別の列で戻す。
誰も列を逆に走らない。
水桶は、一つの流れとなって火元へ届いた。
その列の最後尾へ、僧衣の老人が黙って加わった。
水叟だった。
「ここへ出てきてはなりません!」
佐吉が駆け寄る。
水叟は答えない。
重い桶を受け取り、次の者へ渡す。
一桶。
また一桶。
かつて家臣だった老人たちが、その姿を見つめた。
誰も「殿」とは呼ばなかった。
ただ、水叟から桶を受け取るたびに、深く頭を下げる。
町人たちは彼の名を知らない。
それでも、名もない老僧の前後へ並び、水を繋いだ。
炎の照り返しの中で、身分も宗派も過去も消えていた。
残ったのは、水桶を受け取り、次の手へ渡す所作だけだった。
専応は六角堂の縁から、その光景を見つめていた。
やがて、境内に活けてあった一本の柳を抜き、焼けた町家の前へ立てる。
花も言葉もない。
水を含んだ柳の枝が、火の熱の中で静かに垂れた。
燃えた家を悼み、まだ生きている町を認めるような姿だった。
誰も声を発しなかった。
水桶を運ぶ音だけが、夜の下京へ続いた。
火は町家一軒と納戸の一部を焼いたところで止まった。
負傷者は出たが、命を失った者はいない。
三つ目の箱も、町役二人の見張りのもとに残されていた。
夜明け前、箱は六角堂の堂内へ運び込まれる。
三つの立会人が見守る中、蓋が開かれた。
中には久我家の印、古い証文、船荷の記録がそろっている。
だが、最下部だけが不自然に空いていた。
そこへ入っていたはずの一通が、抜き取られている。
残された紙片には、題だけがあった。
『下京焼亡ニ関スル内約』
天文法華の乱で下京が焼ける前に、何者かが火と略奪を取り決めた証文。
箱を奪った者の本当の狙いは、久我家の印ではなかった。
過去の大火を仕組んだ者たちの名が記された——その一通だった。




