第213話 「百の手が結ぶ米の道」
――一つの印が嘘をつくなら、百の手で流れを示せばいい――
脅しの文が届いてから、三日目の朝。
下京の《預かり救恤蔵》の前には、大勢の人が集まっていた。
幕府の奉行人。
三好長逸。
町組の月行事。
寺の僧。
米を運んだ馬借や船頭。
そして、炊き出しを受け取った者たち。
蔵の戸は閉じられていない。
しかし、中の俵を勝手に動かせないよう、町、寺、荷主の三つの封が掛けられていた。
「久我家の者が、救恤米を盗んだという証があるそうやな」
群衆の中から声が上がる。
「蔵の米を隠して、あとで高う売るつもりやったんやろ」
噂は、脅しの期限より早く町へ広がっていた。
水叟は人前に出ない。
水月庵に残り、古い川筋の帳面を守っている。
ここで応えるのは、現在の蔵を預かる者たちだった。
墨屋宗白が、蔵の前へ進み出る。
「疑いがあるなら、確かめてもらう。ただし、噂だけで誰かを縛ることは認めへん」
宗白が三つの封を一つずつ示した。
町組の封。
寺の封。
荷主を代表する馬借の封。
三人がそろって初めて、蔵の戸が開かれる。
中には、俵が用途ごとに分けて積まれていた。
炊き出しに使う米。
病人と幼子へ回す米。
種として残す米。
道が途絶えたときの備え。
それぞれに違う形の木札が付いている。
「札を付け替えたら、何とでも言える」
先ほどの声が、また飛んだ。
「せやから、今日は札だけを見せるんやない」
宗白が手を上げると、かん太たちが一本の長い縄を運んできた。
縄の端は、蔵の入口へ結ばれる。
最初に前へ出たのは、山崎から米を運んだ馬借だった。
「この荷は、わしらが運んだ」
男は自分の荷札と照らし合わせ、縄へ小さな藁の輪を結ぶ。
次は、橋番。
「この日に三十俵が橋を渡った。雨で板が傷んどったから、一頭ずつ通した」
橋番は、鎹の形をした木片を結んだ。
船頭は舟形の札。
荷を量った者は升の札。
蔵で受け取った者は、三色の紐。
誰か一人の印ではない。
米が通った場所ごとに、違う人の記憶と記録が縄へ加わっていく。
「十一俵が雨に濡れたとき、わしもおった」
水月庵の老僧が前へ出た。
「濡れた分は、乾いた米と混ぜてへん。俵を開き、食べられる物と傷んだ物を分けた」
「種籾を先に別の蔵へ移したんは、うちや」
農家の女が、籾殻を入れた小袋を結ぶ。
「今日の腹を満たしても、春に蒔く物がなかったら、また飢えるからや」
最後に、炊き出しを受けた者たちが進み出た。
お寅婆が一人ずつへ短い紐を渡す。
「食うた分は、食うたと言え。恥じることやない。貸しを受けて、生き残った証や」
幼子を抱いた母親。
片腕を傷めた職人。
家を焼かれた老夫婦。
仕事を失った若者。
それぞれが、椀の数を示す結び目を縄へ残した。
京鈴も、片方だけの赤い草履で前へ出る。
少女は何も言わない。
ただ、自分が食べた一椀分の細い赤紐を、縄へ固く結んだ。
その所作を見て、ざわめきが静まった。
茶太郎は、長くなった縄を見つめた。
馬借の輪。
橋番の木片。
船頭の札。
農家の小袋。
炊き出しを受けた者の結び目。
一俵の米が、誰の手を通り、どこへ届いたのか。
その流れが、一本の縄になって町の前へ現れていた。
宗白は、箱から偽帳面の写しを出した。
「この帳面では、二十俵が七月十日に下京で売られたことになっとる」
馬借の頭が声を上げる。
「その二十俵は、七月十一日まで山崎にあった。橋が傷んで、動かせへんかったからや」
橋番も、自分の記録を掲げた。
「十日の夜は大雨や。橋を閉じとった。米どころか、人一人も通してへん」
偽帳面に書かれた取引は、起こりようがなかった。
それでも、群衆の後ろから男が進み出た。
上等な衣を着た、見覚えのない商人だった。
「多くの者が口裏を合わせたとも考えられる」
男は朱印の押された書状を掲げる。
「ここに久我家の命がある。救恤米を市へ流し、得た銭を淀へ隠せと記されておる」
佐吉の顔に怒りが浮かぶ。
書状には、本物の家印が押されていた。
奉行人も長逸も、すぐには偽物と言えない。
茶太郎は書状ではなく、商人の手を見た。
米俵を扱う者の掌には、縄で擦れた跡がある。
墨を扱う宗白の指は黒い。
だが、その男の指はきれいだった。
「あなたは、その米をどこで受け取ったんですか?」
「何?」
「どの蔵で、誰から、何俵受け取ったんですか?」
「書状にあるとおりや」
「書状やなくて、あなたが見たものを教えてください」
商人は答えない。
茶太郎は縄を持ち上げた。
「ぼくたちの帳面も、間違うことはある。だから、運んだ人や食べた人にも確かめてもらったんです。あなたの話には、書状のほかに誰がいますか?」
沈黙が落ちた。
商人の額に汗が浮かぶ。
白灯が、その足元へ近づいて匂いを嗅いだ。
「にゃ」
茶丸は群衆の外側を見ている。
男を見張っている者が、ほかにいる。
弥七は追わなかった。
まず、書状を持つ商人の身を守るため、町組の者へ囲ませる。
「この男も、使われただけかもしれん。ここで殴れば、口を閉ざすだけや」
男の肩が震えた。
「……娘を預けとると言われた」
かすれた声が漏れる。
「この文を読み上げれば、娘を返すと……」
宗白は男から書状を奪わなかった。
代わりに、誰も座っていない場所へ椀を一つ置く。
「話せ。食うてからでもええ」
謝罪も、責める言葉もなかった。
ただ、戻れる場所を一つ残す所作だった。
茶太郎は大鍋の蓋を開けた。
米だけでは足りないため、麦と刻んだ蕪を加えて炊いてある。
塩は、山崎を通った荷から一つまみ。
干し茸の出汁を利かせた《水霊百手結び飯》。
一人で作った味ではない。
田で育てた者。
運んだ者。
橋を守った者。
蔵を開いた者。
椀を洗った者。
食べて生き延びた者。
そのすべての手が繋がった味だった。
商人は椀を受け取り、顔を覆った。
「娘は……淀の古い船着き場におる。欠けた輪の印を掲げた舟や」
弥七と佐吉が立ち上がる。
だがそのとき、屋根の上からシオが舞い降りた。
脚に結ばれた文には、短い知らせがあった。
『古い船着き場に舟なし。
代わりに、子どもの赤い帯と、三つ目の箱の蓋を発見』
敵は、すでに次の場所へ移っていた。
百の手で米の流れは示せた。
しかし、奪われた一人の子どもの行方だけは——まだ、どの帳面にも書かれていなかった。




