↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
PR
220/318

第212話 「整いすぎた帳面と、消えた本物の印」

 ――疑わしい証拠ほど、信じたい者には本物に見える――


 敵の印が刻まれた箱は、水月庵の離れへ運ばれた。


 箱の周囲には縄を張り、茶太郎たち子どもは近づかない。

 錆びた鍵を調べるのも、箱を開けるのも大人の仕事だった。


「火薬や毒が仕込まれとる可能性も、ないとは言えん」


 弥七やしちが告げる。

 甚八じんぱちは錠前の表面を布で拭い、形を確かめた。


「無理に叩いたら、中身まで傷める。錠だけ外す」


 戸を開け放ち、風が離れへ流れるようにする。

 水叟、弥七、甚八、佐吉だけが中へ入り、ほかの者は庭から見守った。

 

 やがて金属の擦れる音がした。

 錠前が外れる。


 弥七が長い棒で、箱の蓋を少しずつ押し上げた。


 煙も粉も出ない。

 異臭もない。


「危ない仕掛けは見当たらん」


 中に入っていたのは、三冊の帳面と、幾通もの書状だった。

 どれも油紙に包まれ、水を吸っていない。

 甚八が不思議そうに首を傾げる。


「外の鉄はあれだけ錆びとるのに、中の紙はきれいすぎるな」


 帳面は庵の広間へ移された。

 茶太郎たちは手を触れず、少し離れた場所から眺める。

 水叟が一冊目を開いた。


 そこには、米、塩、油、薬種の取引が細かく記されていた。


 荷を送った日。

 受け取った町。

 支払われた銭。

 そして、かつて淀の城を預かった久我家の名。


 幕府方へ兵糧を売った記録。

 細川方へ同じ米を横流しした記録。

 寺社から預かった銭を、私物にした記録まである。


「これが本物なら……」


 佐吉の顔が青ざめる。


「久我家は、どちらからも裏切り者と見なされる」


 弥七は二冊目を開いた。

 こちらには、荷を運んだ馬借や船頭の名が並んでいる。

 その中には、昨夜の老船頭の名もあった。


「わしは、こんな銭を受け取ってへん!」


 老船頭が声を震わせた。


「せやけど、わしの名や。昔使うとった船の名まで書いてある……」


 すべてが嘘ではない。

 実在する者の名。

 本当にあった船。

 使われていた蔵。


 そこへ偽りの取引だけが混ぜられている。


 茶太郎は帳面を見つめ、ある違和感に気づいた。


「きれいやね」


 佐吉が振り返る。


「何がや?」


「文字も、線も。ぜんぶ同じ濃さで、書き直した跡が一つもない」


 伏見の繕い所で使う帳面には、墨の濃い日も薄い日もある。

 数え間違いを直した跡もあれば、雨粒が落ちて滲んだ場所もある。

 忙しい日に斜めになった文字もあった。

 だが、箱から出た帳面は、最初から最後まで整いすぎていた。


「使いながら書いた帳面やなくて、あとから一度に作ったみたいや」


 かん太も身を乗り出した。


「それに、荷が届く前の日に、受取済みになっとるところがある」


 弥七が示された日付を確かめる。

 二冊目では七月十一日に淀を出た米が、一冊目では七月十日に下京で売られていた。


「荷が時を遡っとるな」


 甚八が鼻を鳴らす。

 水叟は何も言わず、一冊目の最後まで頁をめくった。


 その指が、途中で止まる。

 一行だけ、紙の表面が薄く削られていた。


「ここに何か書かれていた」


 宗白が紙を横から光へ透かす。

 消された墨の跡が、ごくわずかに残っている。


『三ノ箱へ、真の印と証文を移す』


 佐吉が立ち上がった。


「流された箱や!」


 敵が本当に狙っていたのは、偽帳面の入った箱ではない。

 久我家が使っていた印。

 取引相手から受け取った証文。


 本物と偽物を見分けるための手掛かりが、三つ目の箱へ入っていたのだ。


「その印を使えば、偽の書状を本物に見せられる」


 宗白が低い声で言う。


「救恤蔵の米を売ったという文も、通行料を命じたという文も作れる」


 茶太郎は思わず水叟を見た。


「この帳面、燃やした方がええんかな」


「燃やせば、我らに都合が悪いから消したと言われる」


 水叟は三冊を閉じた。


「偽りの証は、隠すほど力を持つ。誰が、どこを、なぜ偽ったか分かる形で残さねばならぬ」


 まず、帳面をそのまま封じる。

 次に、宗白とかん太が内容を書き写す。


 数字や名を一つずつ、古い川筋の帳面と照らし合わせる。

 名前を書かれた者を、初めから罪人として扱わない。

 本人だけでなく、同じ荷を運んだ者や、受け取った蔵の記録も確かめる。


「一人の言葉だけで、白とも黒とも決めへん」


 茶太郎が言うと、水叟は静かに頷いた。


「それが、人を守る帳面の読み方や」


 影猫衆にも、新しい決まりが伝えられた。

 偽帳面に名のある者を追わない。

 家へ押しかけない。

 危険が迫っている者を見つけたら、まず知らせ、安全な場所へ導く。

 裁くためではなく、確かめる時間を守るための見張りだった。


 その日の夕方、一羽の鳩が水月庵へ降りた。


 アオバトのシオではない。

 灰色の伝書鳩で、脚には見覚えのない黒い文が結ばれている。

 弥七が布越しに文を外し、広げた。


『久我家が救恤米を盗んだ証、我らが預かった。

 三日のうちに下京の蔵を閉じよ。

 従わぬなら、幕府と細川の双方へ帳面を届ける』


 文の下には、朱色の印が押されていた。

 二本の葦と、水の流れ。

 水叟の箱に残されていたものより鮮明な、久我家の本物の印だった。


 佐吉の手が刀へ伸びる。

 だが水叟は、その手を静かに押さえた。


「怒りで動けば、相手の望む道へ入る」


「では、どうなさるのです」


 水叟は、救恤蔵の配置を書いた地図を見つめた。


「蔵は閉じぬ。米も隠さぬ」


 そして茶太郎へ向き直る。


「三日のうちに、偽りより先に本当の流れを見せる」


 茶太郎は息を呑んだ。


 敵が朱印で一つの嘘を作るなら——こちらは、米を運んだすべての手で、一つの真実を示さなければならない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
面白いと思っていただけたら、ぜひブックマークや評価(★)をお願いします!
『茶太郎がゆく』
style=
目次からブックマークをお願いします
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。