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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第210話 「逃げた旗と、川底の通行帳」

  ――追うべき背中より、先に守るべき人がいる――


 下京の救恤蔵から逃げた足音を、弥七やしちが追おうとした。


「待って!」


 茶太郎が、その袖をつかむ。


「老船頭さんが先や。あの人は、見られたかもしれへん」


 弥七の足が止まった。

 追えば、逃げた者に近づける。

 だが、その間に残った気配が老船頭を襲えば、取り返しがつかない。


「よう気づいた」


 弥七は腰の短刀から手を離した。


「かん太、蔵の戸を閉めろ。宗白殿は爺さんを奥へ。俺は外を見る」


 茶丸と白灯あかりは、すでに別々の方向へ動いていた。

 白灯は逃げた足音の残りを追う。

 茶丸は蔵の屋根へ上がり、まだ動かないもう一つの気配を見張った。


 影猫衆の役目は、人を襲うことではない。


 見つける。

 知らせる。

 そして、危険から帰る道を残す。


「……ニャッ」


 茶丸が、暗がりへ向かって低く鳴いた。

 すると、積み上げた材木の陰から一人の浪人が姿を現した。


「佐吉さん?」


 茶太郎が目を見開く。

 水月庵で出会った、かつて久我家へ仕えていた男だった。


「驚かせてしもうたな」


 佐吉は両手を見える位置へ上げた。


「水叟様から、あの印が人目に触れたら見守れと言われていた」


「今、様と言うたな」


 墨屋宗白すみや・そうはくが鋭く問う。


「……庵で世話になっとる方への敬い方や」


 佐吉は、それ以上を語らなかった。


 弥七も追及しない。

 今は、逃げた者の目的を確かめる方が先だった。


 間もなく、白灯が戻ってきた。

 口には何もくわえていない。代わりに、前足を何度も地面へ擦りつけた。


「何かを捨てた場所があるみたいや」


 弥七、佐吉、町組の夜番二人が、白灯の案内で路地へ向かった。

 茶太郎とかん太は蔵に残る。


「ぼくも行ける」


「行けることと、行くべきことは別や」


 弥七はそう告げ、暗がりへ消えた。

 茶太郎は悔しかったが、反論しなかった。

 蔵の中では、老船頭が小さく震えていた。


「わしが余計なことを言うたせいや……」


「違うよ」


 茶太郎は温め直した《水霊ひとつまみ汁》を差し出した。


「知ってることを話した人が悪いことには、したくない」


 老船頭は椀を両手で包んだ。

 しばらくして、弥七たちが戻った。

 持ち帰ったのは、汚れた陣笠と破れた旗。それに、油紙で包まれた細長い帳面だった。


 三好長逸みよし・ながやすが旗を広げ、顔をしかめる。


「遠目には晴元様方の旗に見える。だが紋の線が一本足りぬ」


「偽旗か」


「旗を知らぬ荷運び人なら、見分けられまい」


 帳面には、日付、荷の種類、俵の数、取った銭が記されていた。


 塩。

 味噌。

 油。

 薬種。

 鉄。


 生きるために欠かせない物ほど、高い銭を取られている。

 その末尾には、同じ印が繰り返されていた。


 欠けた円の中を、一本の線が横切る印。


 宗白が指先の墨を紙へ押しつけた。


「山崎だけの小遣い稼ぎやない。集めた銭を、どこかへ納めとる」


「旗を偽って、幕府と晴元様の仲も悪う見せられる」


 長逸の声が低くなる。


「荷が止まれば、町は双方を恨む。よう考えられたやり方や」


 茶太郎は通行帳を見つめた。


「この人たちは、塩が欲しかったんやないんだね」


「ああ」


 弥七が頷く。


「荷が止まって、人同士が疑うことを望んどる」


 老船頭が、帳面の端へ顔を近づけた。


「この紙……川の泥の匂いがする」


「川の泥?」


「船荷の帳面を、長いこと水辺の箱へ入れとった匂いや。しかも、ただの川やない。葦の腐る、淀の古い入江の匂いや」


 佐吉の表情が変わった。

 老船頭は、それに気づかないまま話を続ける。


「昔、淀の城へ荷を運んだ者は、川底へ鉄の箱を沈めたことがあった。戦で蔵を奪われても、荷の道と取引先だけは残すためや」


「川の中に帳面を隠したの?」


「水へ直に沈めるんやない。油を引いた箱を、杭と縄で水際の深みに留める。せやけど落城のあと、引き上げられんままになった箱がある」


 宗白が問う。


「場所を覚えておるか?」


 老船頭は首を横に振った。


「詳しい場所を知っとった親方は、もうおらん。ただ、目印になる歌があった」


 老人は、掠れた声で唱えた。


「葦が二つ、月を挟み、水なき夜に道が出る——」


 佐吉が息を呑む。

 それは久我家の者だけが使った、古い荷道の覚え歌だった。

 弥七はその反応を見逃さなかったが、何も言わなかった。


 翌朝、《山崎合せ通り札》の本運用が始まった。


 塩荷だけでなく、薬や味噌にも札を付ける。

 通行料を取った者は、自分の名と仕事を残す。

 名を書けない者には、所属ごとに違う刻印を用意する。


 偽旗の兵へ銭を払わずに済むだけではない。

 本当に橋を直し、夜道を守った者へ、取り分が届くようにするためだった。


 最初の十頭が山崎を出る。

 その列を見送りながら、茶太郎は佐吉へ尋ねた。


「川底の箱に、何が入ってると思う?」


「古い帳面だけや」


 佐吉は即座に答えた。


 だが、その拳は固く握られていた。


「古い帳面なら、どうしてそんな顔をするの?」


 佐吉は答えない。

 代わりに、二本の葦が刻まれた通り札を裏返した。


「茶太郎。昔の道を開くいうことは、昔の敵にも道を教えることになる」


 塩の流れは、ようやく動き始めた。

 しかしその下では——淀の古い水底へ沈んだ秘密もまた、静かに浮かび上がろうとしていた。


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『茶太郎がゆく』
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