第209話 「止まった塩荷と、一度だけ払う通り札」
――ただにするのではなく、同じ働きへ二度払わない――
山崎へ向かう街道で、十頭あまりの荷馬が足を止めていた。
背に積まれているのは、白い塩の俵。
下京の救恤蔵へ届くはずだった荷である。
「道は塞がってへんのに、なんで進まへんの?」
茶太郎が尋ねると、塩荷を率いる馬借の頭が苦い顔をした。
「進まへんのやない。進めへんのや」
男は腰から、五枚の小さな札を取り出した。
河岸で払った荷揚げ銭。
橋を守る者へ払った警固銭。
傷んだ道を直すための普請銭。
幕府方の荷改め。
細川方を名乗る兵の通行料。
「一つずつなら払えん額やない。けど、同じ荷を止められるたびに払うたら、下京へ着く前に銭が尽きる」
三好長逸が札を見比べた。
「最後の通行料は、晴元様が命じたものではない」
「せやろな。けど、道を塞いどる者は、あんたらの旗を掲げとる」
馬借の頭は、塩俵を叩いた。
「偽物か本物か確かめるために、こっちは荷を腐らせるわけにはいかんのや」
塩そのものは腐らない。
だが、雨を吸えば固まり、俵は傷む。荷馬を止めている間にも、餌代と人足の食い扶持は増えていく。
幕府の奉行人は険しい顔で言った。
「ならば、すべての関を廃して通せばよい」
「それも困る」
声を上げたのは、橋番の老人だった。
「橋板を替える銭は誰が出す。夜盗を追う者の飯はどうする。ただで通せと言われたら、次の大雨で橋を閉じるしかない」
茶太郎は五枚の札を地面へ並べた。
全部をなくせば、道を守る者がいなくなる。
全部を払えば、荷が動かなくなる。
「同じ銭に見えても、している仕事が違うんだね」
「違う仕事もある。名だけ変えた同じ仕事もある」
弥七が一枚を指した。
「この二つは、どっちも荷の中身を改めた印や。しかも半里も離れとらん」
茶太郎は馬借の頭へ尋ねた。
「荷改めをされるたびに、俵を開けるの?」
「開けられる。縄を結び直すんも、こっちの仕事や」
「それなら、俵も弱くなる……」
茶太郎はすぐに答えを出さなかった。
荷揚げ人、橋番、道普請を担う村人、幕府の役人、長逸、そして馬借。
それぞれに、自分が行っている働きを一つずつ話してもらった。
千代が持たせてくれた帳面へ、かん太が内容と銭の額を書き込む。
すると、二重になっている負担が見えてきた。
荷の数を数える者が三か所。
中身を確かめる者が二か所。
道の警固を名目に銭を取る者が二組。
その一方で、壊れかけた橋を直す者には、十分な銭が届いていなかった。
「銭が多すぎるんやない」
かん太が帳面を見つめた。
「仕事をしてへんところにも流れて、ほんまに仕事をしとるところへ届いてへんのや」
奉行人が茶太郎を見下ろした。
「では、どう分ける?」
「荷主が全部の相手と別々に話すから、止まるんだと思います」
茶太郎は一枚の薄い木札を取り出した。
片面に荷主、行き先、俵の数。
裏面に、荷揚げ、荷改め、橋、警固という四つの印を刻む。
「最初の預かり所で、一度だけまとめて払う。仕事をした人は、自分の印を入れる。集めた銭は、あとで印の数と決めた取り分に合わせて分けます」
橋番の老人が眉をひそめた。
「払うたと偽る者が出るぞ」
「だから、札だけやなくて帳面にも残す。荷主と預かり所と、最後に受け取る蔵の三か所で確かめる」
長逸が続けた。
「幕府と晴元様の側でも、この札を共通の通行証として認める。一度改めた荷を、道中で勝手に開かせぬ」
「偽の兵が銭を求めたら?」
弥七が問う。
長逸は自分の脇差から飾り紐を外し、木札へ結んだ。
「この色と結び方を覚えさせる。これを無視して荷を止める者は、晴元様の名を盗む者として扱う」
幕府の奉行人も、扇の骨へ使われていた細い竹片を一本抜いた。
「公方様の側からも印を添える。双方の印がある荷を止めた者は、名と所属を記録せよ」
最初の《山崎合せ通り札》が出来上がった。
ただし、試すのは三頭分だけ。
残りの荷は、仕組みが本当に働くと分かるまで動かさない。
「全部いっぺんに変えへんのやな」
馬借の頭が言った。
「失敗したら、塩が全部止まるから」
茶太郎の答えに、男は初めて笑った。
「六つの子にしては、臆病や」
「臆病だから、三頭だけにするんだよ」
三頭の荷馬は、山崎を出た。
荷改めの場所で一度止められたが、双方の印を見た役人は俵を開かず、数だけを確かめた。
橋では、橋番が板と鎹の状態を確認する間だけ待った。
名目の分からない通行料を求める兵も現れたが、弥七が名を尋ねると、旗を残して逃げていった。
夕刻、三頭は下京の救恤蔵へ到着した。
墨屋宗白が俵の数と封を確認し、帳面へ最後の印を記す。
「通ったから成功、ではない」
宗白は冷静に言った。
「橋番へ銭が届き、馬借へ約束した運賃が払い戻されて、初めて成功や」
「うん。最後まで確かめる」
届いた塩は、すぐには配られなかった。
傷みやすい食材を漬ける分。
病人の食事へ使う分。
炊き出しへ回す分。
次の荷が遅れたときの備え。
四つに分け、別々の木札を付ける。
茶太郎は、その日の炊き出しに蕪と干し茸の汁を作った。
塩を多く入れず、一つまみずつ加えて味を見る。
味噌の香りと蕪の甘みが、わずかな塩でゆっくり引き立っていく。
《水霊ひとつまみ汁》。
椀を受け取った馬借の頭は、一口すすって目を丸くした。
「塩が少ないのに、薄うない」
「足りないからって、何でも減らせばいいわけじゃない。どこに使えば一番届くか、考えるんだ」
茶丸が椀の横で鼻を鳴らした。
「……ニャ」
その夜、山崎から一人の老船頭が救恤蔵を訪れた。
男は《山崎合せ通り札》の裏を見つめている。
そこには、試しに水叟が刻んだ二本の葦と流れの印があった。
「この印……まだ残っとったんか」
老船頭は震える指で、印の溝をなぞった。
「昔、淀の流れを守った御方が使うておられた。荷を奪うためやない。戦が起きても、食い物を通すための印やった」
宗白が問いかける。
「その御方の名は?」
老船頭は周囲を見回し、声を落とした。
「死んだと聞かされた。せやけどな——」
蔵の屋根で、白灯が鋭く鳴いた。
「にゃあっ!」
暗がりの向こうで、話を聞いていた何者かが走り去る。
弥七が追おうとしたが、茶丸は反対側の道を見据えた。
逃げた足音は一つ。
しかし、蔵を見張る気配は——もう一つ残っていた。




