第208話 「二つの命令書と、兵糧にしない米」
――数を隠さず、命を守るために伏せる――
《下京預かり救恤蔵》の前で、二人の使者が向かい合っていた。
一人は室町幕府の奉行人。
もう一人は細川晴元方から来た三好長逸。
二人が持つ命令書には、よく似た文言が記されていた。
下京。
伏見。
水月庵。
各所に蓄えられた米、味噌、乾物、薪の総数と保管場所を提出せよ——。
「政所として、京周辺の備えを把握する必要がある」
幕府の奉行人が言う。
長逸も続ける。
「晴元様の軍勢も、この地を守る責を負う。兵が飢えれば、かえって町へ負担を掛けることになる」
墨屋宗白は、救恤蔵の扉を背にした。
「つまり、いざとなれば、この米を兵糧へ回すおつもりか」
「必要があればな」
奉行人は否定しなかった。
蔵の前へ集まった町人たちがざわめく。
「やっぱり、お上へ数なんぞ教えるべきやない!」
「伏見の蔵を隠せ!」
「水月庵の帳面を燃やしたらええ!」
「燃やしたらだめ!」
茶太郎の声が響いた。
誰もが六歳の子を見た。
「帳面を消したら、ぼくらも何がどこにあるか分からなくなります。雨で米が濡れても、盗まれても、気づけません」
「では、全て差し出せと言うのか?」
宗白が尋ねる。
「数は確かめてもらう。でも、何のために残している米かも、一緒に書いてもらいます」
茶太郎は、水月庵で作った三つの備蓄帳を広げた。
食べるための米。
病人と幼児へ回す米。
種籾。
急な火災や水害に備える米。
売買や交換へ回せる余り。
同じ一俵でも、役目が違う。
幕府の奉行人が眉を寄せた。
「米は米であろう」
「今日食べる米と、春に蒔く種籾を同じにしたら、来年の米がなくなります」
長逸は帳面を覗き込んだ。
「茶太郎。救恤に必要な量は、誰が決める?」
茶太郎は答えに詰まった。
自分一人で決めれば、それもまた力の独占になる。
「町組と、炊事場と、医師と、実際に荷を運ぶ人で数えます。ぼく一人では決めません」
宗白が頷く。
「下京に何人おるか。病人と幼子が何人か。一日に炊ける量はどれほどか。毎日、変わるからな」
そこへ、お寅婆が駆けてきた。
「話の途中ですまんけど、米を出しておくれ。焼け跡の仮小屋で、乳の出えへん母親が倒れた」
救恤蔵の扉には、寺、商人、町組を示す三本の封がある。
しかし寺の立会人は、まだ来ていない。
「三者が揃うまで、蔵は開けられぬ」
奉行人が言う。
「待っとる間に、子が腹空かすわ」
お寅婆が睨み返す。
三つの封は、不正を防ぐために作った。
だが、守りを固くしすぎたため、急いで助ける道まで塞いでいた。
「決まりを直そう」
茶太郎は、蔵の横にある小箱を指した。
「病人や赤ちゃんへ急いで出す分だけ、別にします。小箱なら二人の立ち会いで開けられるようにする。その代わり、使った量と理由を、三冊全部へ後から書く」
「勝手に救急と称して持ち出す者が出たら?」
長逸が問う。
「一人では開けられないようにします。あとで三者が確かめる。嘘があれば、次から立会人になれません」
宗白が新しい青紐を取り出した。
町組と炊事場。
あるいは寺と町組。
異なる立場の二人が揃えば、救急箱を開けられる。
大蔵の三つの封は、そのまま残す。
お寅婆は米を受け取ると、奉行人へ言った。
「これは兵を養う米やない。今から、母子を生かす米になる」
奉行人は、返す言葉を失った。
話し合いは夕刻まで続いた。
最終的に、備蓄の総数は双方へ示すことになった。
ただし、細かな保管場所は三つに分けて封書へ記し、一人の権力者が全てを知ることは避ける。
救恤、種籾、病人用として印を付けた分は、兵糧として徴発しない。
交換に回せる余剰が出た場合だけ、町組、寺、商人、荷運び人の合議で貸し出す。
幕府方と晴元方は、その保証人になる。
「我らが保証するだと?」
奉行人が不満を示す。
宗白は冷静に返した。
「米数を知るなら、守る責も負うてもらう」
長逸が先に、保証状へ名を書いた。
「三好方は認める。救恤米へ手を出した兵は、こちらで罰する」
奉行人は長逸を睨んだ。
「三好だけが民を守る顔をするつもりか」
そう言って、幕府の封判も押した。
二つの勢力が仲良くなったわけではない。
互いに相手だけが信用を得ることを嫌い、同じ保証状へ名を連ねたのだ。
理由はどうであれ、救恤米を守る二つの盾ができた。
茶太郎は、二人へ同じ椀の粥を差し出した。
大蔵から出した米ではない。
救急箱から母子へ届けた残りに、刻んだ蕪の葉と味噌を加えたものだ。
長逸が一口すすり、奉行人も遅れて椀を取る。
「同じ鍋でも、我らの考えは同じにはならぬぞ」
「同じじゃなくていいです」
茶太郎は答えた。
「でも、守る米まで取り合わないって約束は、一緒にできます」
日が沈む頃、二通の命令書は一枚の保証状へ変わった。
その直後、救恤蔵の外から甲高い声が上がった。
「塩が届かへん!」
伏見から来た荷運び人が、空の塩樽を転がした。
「山崎へ向かう道で、荷が止められとる。米があっても、このままでは漬物も味噌の仕込みも続かん!」
米蔵を守った次に止まったのは、命を支える塩の流れだった。




