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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第207話 「誰のものでもない蔵と、三つの封」

 ――持ち主を決める前にも、守れる命はある――


 下京の焼け跡に、その土蔵は残っていた。

 外壁の半分は煤で黒い。

 屋根瓦は崩れ、扉にも焼け跡がある。

 それでも厚い土壁は、内部まで炎が入るのを防いでいた。


「これが、久我家の蔵や」


 佐吉さきちが言った。


 水叟すいそうの命に従い、彼はかつての主を名乗らせるためではなく、蔵を救恤きゅうじゅつへ使うために下京へ戻ってきた。

 だが、蔵の前には三つの集団が待っていた。


「この土地は、寺へ納める地子が滞っておる」


 寺の使いが言う。


「久我家には貸しがある。蔵は返済に充てるべきや」


 伏見の商人が帳面を掲げる。


 墨屋宗白すみや・そうはくは、下京の町組を代表して腕を組んだ。


「ここに残っとる者を冬まで生かすには、共同の米蔵が要る」


 三者とも、全く根拠がないわけではない。

 しかし、火災で古い証文の多くが失われ、どこまでが正しいのか確かめられない。


 佐吉は唇を噛んだ。


「久我家の蔵や。家印も残っておる」


「家は滅びたのであろう」


 商人の言葉に、佐吉の手が震える。

 茶太郎は水叟のことを思い出したが、何も言わなかった。

 語るべき時まで守る秘密がある。


「蔵の持ち主を、今日決めないといけないんですか?」


 茶太郎が尋ねると、寺の使いが眉をひそめた。


「決めねば、中へ物を入れられぬ」


「でも、決めるまで空のままだったら、雨で米が傷みます」


「六つの子が口を挟む話ではない」


「ほな、大人だけで決められたんか?」


 宗白が静かに言った。

 三者は黙った。


 茶太郎は蔵へ近づこうとしたが、先に京鈴きょうすずが腕を広げた。


「入ったらあかん」


「どうしたの?」


「中で、木が鳴いてる」


 京鈴は焼けた鈴を握り、土蔵の上を見つめた。


 みし……みし……。


 外からは聞き逃しそうな、小さな軋み。


 大工が調べると、屋根を支える梁の一本が火と雨で弱っていた。


「このまま米を積んだら、屋根が落ちる」


 蔵を誰のものにするかを争う前に、蔵そのものが使えなかったのだ。


 茶太郎は水叟に教わった通り、最初に出口を確かめた。


 正面の扉は一つ。

 裏の小窓は、人が通れない。

 横手には焼けた材木が積まれ、火が出れば逃げ道を塞ぐ。


「米を入れる前に、道を作ろう」


 町人たちが焼け材を片づけ、裏手へ小さな搬出口を設けた。甚八じんぱちが《水輪の繕い鎹》で補強し、大工が梁へ添え木を当てる。


 京鈴は修理の間、軋みが変わるたびに知らせた。


「さっきより、音が短い」


「ここを締めたからや」


「でも、奥はまだ鳴いてる」


 京鈴の耳と職人の手が、蔵を少しずつ立て直した。

 修理が終わると、所有を巡る話し合いが再開された。


 宗白が提案する。


「持ち主が決まるまで、この蔵は売らん。誰か一人にも渡さん。町組が、預かり蔵として使う」


「町組だけなら、町の都合で米を動かすやろ」


 商人が反論する。


「寺だけでも、商人だけでも同じです」


 茶太郎は三本の組紐を取り出した。


 寺は白。

 商人は黄。

 町組は青。

 三本を結び、扉の留め金へ封をする。


「開けるときは、三つの立場から一人ずつ立ち会う。切れた紐があれば、勝手に開けたって分かります」


 帳面も一冊にはしなかった。


 蔵の中に一冊。

 宗白のもとに一冊。

 寺と商人が交代で照合する控えを一冊。


 文字を読めない荷運び人のため、俵数は木札の刻みでも示した。


 米を入れた日。

 出した日。

 誰へ、何のために渡したか。


 古い家の名ではなく、今の役目を記す。

 佐吉は、久我家の家印を扉へ掲げようとしていた。

 しかし水叟の言葉を思い出し、手を止めた。


「家印は、蔵の内側へ残す」


「外へ出さなくていいの?」


 茶太郎が聞く。


「この蔵を久我家へ取り戻すために来たんやない。人が生き延びる役目へ戻すために来た」


 佐吉は家印の付いた古い蔵札を、帳面の保管箱へ納めた。

 扉の外へ掲げられたのは、水輪と一つの椀を描いた新しい札だった。


 《下京預かり救恤蔵》。


 最初に入ったのは、米十二俵、味噌二樽、乾物三箱、薪十束。


 だが全ての備蓄を集めたわけではない。


 伏見。

 水月庵。

 下京。


 三か所へ分け、どこかが失われても、残りから助けられる形にした。

 お寅婆おとらばばが、蔵の前で粥を配った。


「施しやない。蔵からの貸しや。元気になったら、水一桶でも返し」


 寺の使いも、商人も、町人も、同じ鍋から受け取った。

 誰の米であったかではなく、誰の腹へ届いたかを帳面へ残す。

 夕暮れ、救恤蔵へ二人の使者が現れた。


 一人は室町幕府方。

 もう一人は細川晴元方。

 二人は同時に、同じ要求を口にした。


「この蔵と、伏見、水月庵にある米の総数を提出せよ」


 宗白の顔から笑みが消える。

 備蓄の数が知られれば、救恤のための米が兵糧として徴発されるかもしれない。


 茶太郎は三本の封を見つめた。

 蔵を作ることより難しいのは——その蔵を、力を持つ者から守ることだった。


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『茶太郎がゆく』
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