第207話 「誰のものでもない蔵と、三つの封」
――持ち主を決める前にも、守れる命はある――
下京の焼け跡に、その土蔵は残っていた。
外壁の半分は煤で黒い。
屋根瓦は崩れ、扉にも焼け跡がある。
それでも厚い土壁は、内部まで炎が入るのを防いでいた。
「これが、久我家の蔵や」
佐吉が言った。
水叟の命に従い、彼はかつての主を名乗らせるためではなく、蔵を救恤へ使うために下京へ戻ってきた。
だが、蔵の前には三つの集団が待っていた。
「この土地は、寺へ納める地子が滞っておる」
寺の使いが言う。
「久我家には貸しがある。蔵は返済に充てるべきや」
伏見の商人が帳面を掲げる。
墨屋宗白は、下京の町組を代表して腕を組んだ。
「ここに残っとる者を冬まで生かすには、共同の米蔵が要る」
三者とも、全く根拠がないわけではない。
しかし、火災で古い証文の多くが失われ、どこまでが正しいのか確かめられない。
佐吉は唇を噛んだ。
「久我家の蔵や。家印も残っておる」
「家は滅びたのであろう」
商人の言葉に、佐吉の手が震える。
茶太郎は水叟のことを思い出したが、何も言わなかった。
語るべき時まで守る秘密がある。
「蔵の持ち主を、今日決めないといけないんですか?」
茶太郎が尋ねると、寺の使いが眉をひそめた。
「決めねば、中へ物を入れられぬ」
「でも、決めるまで空のままだったら、雨で米が傷みます」
「六つの子が口を挟む話ではない」
「ほな、大人だけで決められたんか?」
宗白が静かに言った。
三者は黙った。
茶太郎は蔵へ近づこうとしたが、先に京鈴が腕を広げた。
「入ったらあかん」
「どうしたの?」
「中で、木が鳴いてる」
京鈴は焼けた鈴を握り、土蔵の上を見つめた。
みし……みし……。
外からは聞き逃しそうな、小さな軋み。
大工が調べると、屋根を支える梁の一本が火と雨で弱っていた。
「このまま米を積んだら、屋根が落ちる」
蔵を誰のものにするかを争う前に、蔵そのものが使えなかったのだ。
茶太郎は水叟に教わった通り、最初に出口を確かめた。
正面の扉は一つ。
裏の小窓は、人が通れない。
横手には焼けた材木が積まれ、火が出れば逃げ道を塞ぐ。
「米を入れる前に、道を作ろう」
町人たちが焼け材を片づけ、裏手へ小さな搬出口を設けた。甚八が《水輪の繕い鎹》で補強し、大工が梁へ添え木を当てる。
京鈴は修理の間、軋みが変わるたびに知らせた。
「さっきより、音が短い」
「ここを締めたからや」
「でも、奥はまだ鳴いてる」
京鈴の耳と職人の手が、蔵を少しずつ立て直した。
修理が終わると、所有を巡る話し合いが再開された。
宗白が提案する。
「持ち主が決まるまで、この蔵は売らん。誰か一人にも渡さん。町組が、預かり蔵として使う」
「町組だけなら、町の都合で米を動かすやろ」
商人が反論する。
「寺だけでも、商人だけでも同じです」
茶太郎は三本の組紐を取り出した。
寺は白。
商人は黄。
町組は青。
三本を結び、扉の留め金へ封をする。
「開けるときは、三つの立場から一人ずつ立ち会う。切れた紐があれば、勝手に開けたって分かります」
帳面も一冊にはしなかった。
蔵の中に一冊。
宗白のもとに一冊。
寺と商人が交代で照合する控えを一冊。
文字を読めない荷運び人のため、俵数は木札の刻みでも示した。
米を入れた日。
出した日。
誰へ、何のために渡したか。
古い家の名ではなく、今の役目を記す。
佐吉は、久我家の家印を扉へ掲げようとしていた。
しかし水叟の言葉を思い出し、手を止めた。
「家印は、蔵の内側へ残す」
「外へ出さなくていいの?」
茶太郎が聞く。
「この蔵を久我家へ取り戻すために来たんやない。人が生き延びる役目へ戻すために来た」
佐吉は家印の付いた古い蔵札を、帳面の保管箱へ納めた。
扉の外へ掲げられたのは、水輪と一つの椀を描いた新しい札だった。
《下京預かり救恤蔵》。
最初に入ったのは、米十二俵、味噌二樽、乾物三箱、薪十束。
だが全ての備蓄を集めたわけではない。
伏見。
水月庵。
下京。
三か所へ分け、どこかが失われても、残りから助けられる形にした。
お寅婆が、蔵の前で粥を配った。
「施しやない。蔵からの貸しや。元気になったら、水一桶でも返し」
寺の使いも、商人も、町人も、同じ鍋から受け取った。
誰の米であったかではなく、誰の腹へ届いたかを帳面へ残す。
夕暮れ、救恤蔵へ二人の使者が現れた。
一人は室町幕府方。
もう一人は細川晴元方。
二人は同時に、同じ要求を口にした。
「この蔵と、伏見、水月庵にある米の総数を提出せよ」
宗白の顔から笑みが消える。
備蓄の数が知られれば、救恤のための米が兵糧として徴発されるかもしれない。
茶太郎は三本の封を見つめた。
蔵を作ることより難しいのは——その蔵を、力を持つ者から守ることだった。
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
面白いと思っていただけたら、ぜひブックマークや評価(★)をお願いします!
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/




