↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
PR
214/339

第206話 「家印を追う浪人と、名乗らない城主」

 ――帰る場所は、名ではなく所作に残る――


 骨灰で磨かれた銅の蔵札が水月庵へ戻ってから、三日後。

 弥七やしちが、不穏な知らせを持ってきた。


「伏見で、あの家印を探っとる者がおる」


 水の流れを挟む、二本の葦。

 滅びたとされる山城久我やましろこが氏の家印だった。


「誰が探してるの?」


 茶太郎が尋ねる。


「古金商人に銭を渡して、蔵札を買った者の名を聞き回っとる。格好は浪人。せやけど、盗人か、昔の家臣かまでは分からん」


 水叟すいそうは薪を割る手を止めなかった。


「家印は、裏へ向けて蔵へ戻した」


「それでも噂は止まらへん」


「噂を斬る刀はない」


 水叟は割った薪を二つの束へ分けた。


 一つは庵の炊事場へ。

 もう一つは山裾の小蔵へ。

 それを見た茶太郎は、百俵の米と同じだと思った。


 火も、米も、情報も、一つに集めすぎない。

 その夜、白灯あかりが庵の裏で低く鳴いた。


「にゃっ」


 茶丸は既に縁側から消えている。

 弥七が灯りを消し、茶太郎を部屋の奥へ下がらせた。


「ここから出るな」


 しばらくして、裏庭から人の声がした。


「離せ……!」


 だが、影猫衆は男へ飛びかかっていなかった。

 茶丸は男の退路に座り、白灯は庵へ戻る道を示すように何度も振り返っている。


 男は逃げようとするたび、暗闇の中から猫の目に見つめられ、とうとう縁側まで戻ってきた。

 弥七が男の刀を預かった。


「誰を斬りに来た?」


「斬りに来たのではない」


 浪人は四十を過ぎているように見えた。

 頬は痩せ、着物は擦り切れている。それでも腰紐と脚絆は、長旅に慣れた者の結び方だった。


「久我家の家印が、宇治で見つかったと聞いた。確かめに来ただけだ」


「夜中に忍び込んでか?」


「表から聞けば、消されると思った」


 水叟が土間へ下りた。

 浪人の目が、水叟の手元へ止まる。


 水叟は濡れた米袋の口を、二度返してから横へ締める独特の結び方で閉じていた。

 浪人の顔から血の気が引く。


「その結び……」


 水叟は何も答えない。

 浪人は膝をつきかけた。


「まさか……殿——」


 水叟が米袋を置いた。


「ここにいるのは、水月庵の寺男だ」


 声は静かだった。

 けれど、その一言には命令に慣れた者の重さがあった。

 浪人は口を閉ざした。


 茶太郎には二人の関係が分からない。

 だが、浪人の震える手を見れば、長い間探していた人に会ったことだけは伝わった。


 水叟は茶太郎へ言った。


「粥は残っているか?」


「少しだけ」


「この者にも一椀」


 浪人が顔を上げる。


「私は、忍び込んだのですぞ」


「腹を空かせた者を問い詰めても、恐れから出た言葉しか返らん」


 茶太郎は、残った米粥を温めた。

 茸の出汁を足し、塩をほんの少し。

 名を付けるほど特別な料理ではない。

 雨の夜に、冷えた身体を戻すための粥だった。


 浪人は一口すすり、俯いた。


「……同じ味です」


「何と同じなの?」


 茶太郎が尋ねても、浪人は答えなかった。

 水叟も説明しない。

 ただ、空になった椀を自分の前へ引き寄せ、黙って洗い始めた。


 城主へ仕えた者と、城を失った者。

 二人の間に謝罪も、再会の言葉もなかった。


 それでも、一人が椀を食べ、一人がその椀を洗う所作だけで、切れたはずの主従の縁がまだ残っていると分かった。


 やがて浪人は名乗った。


「名は佐吉さきち。かつて久我家の米蔵を預かっておりました」


 弥七が問う。


「なぜ今になって家印を探す?」


「下京で、古い蔵の持ち主を巡る争いが起きている。久我家が滅びたとして、蔵と土地を奪おうとする者がおるのです」


 水叟の目が鋭くなる。


「蔵には何がある」


「米はほとんど残っておりません。ただ、大火から逃れた者を受け入れるには使える。町組は救恤蔵きゅうじゅつぐらにしたいと申しております」


「ならば、守るべきは家名ではない」


「では、何を?」


「蔵の役目だ」


 水叟は、茶太郎が作った三つの備蓄帳を佐吉へ見せた。


「久我家の蔵として取り戻せば、また家同士の争いになる。下京の者が共同で預かり、米、薬、薪を分散して置ける仕組みにせよ」


 佐吉は唇を噛んだ。


「殿のお名前を出せば、話は早く進みます」


「出すな」


 水叟の返答に迷いはなかった。


「死んだ城主の名で人を従わせれば、新しい蔵も古い城と同じになる」


 茶太郎は、煤の下から現れた家印を思い出した。

 消さずに残す。

 けれど、今の人々を縛るためには使わない。


「ぼくも下京へ行きます」


 茶太郎が言った。


「水月庵でやったことを、町の人に説明する。水叟さんの名前を出さなくても、百俵を分けて守った方法は伝えられるから」


 水叟はしばらく茶太郎を見つめ、頷いた。


「では、料理より先に蔵の出口を見よ」


「帰り道も」


「忘れるな」


 夜が明ける頃、佐吉は水月庵を出た。

 去り際にも、水叟を殿とは呼ばなかった。

 ただ道の端へ膝をつき、かつての主が見えなくなるまで頭を下げていた。


 茶太郎は、その背を追わなかった。

 名乗れない人には、名乗れないまま守ろうとしているものがある。


 次に茶太郎が向かうのは、焼け跡から立ち上がりつつある下京。


 そこでは百俵より大きなもの——誰のものでもない蔵を、誰が守るのかという争いが待っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
面白いと思っていただけたら、ぜひブックマークや評価(★)をお願いします!
『茶太郎がゆく』
style=
目次からブックマークをお願いします
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。