第206話 「家印を追う浪人と、名乗らない城主」
――帰る場所は、名ではなく所作に残る――
骨灰で磨かれた銅の蔵札が水月庵へ戻ってから、三日後。
弥七が、不穏な知らせを持ってきた。
「伏見で、あの家印を探っとる者がおる」
水の流れを挟む、二本の葦。
滅びたとされる山城久我氏の家印だった。
「誰が探してるの?」
茶太郎が尋ねる。
「古金商人に銭を渡して、蔵札を買った者の名を聞き回っとる。格好は浪人。せやけど、盗人か、昔の家臣かまでは分からん」
水叟は薪を割る手を止めなかった。
「家印は、裏へ向けて蔵へ戻した」
「それでも噂は止まらへん」
「噂を斬る刀はない」
水叟は割った薪を二つの束へ分けた。
一つは庵の炊事場へ。
もう一つは山裾の小蔵へ。
それを見た茶太郎は、百俵の米と同じだと思った。
火も、米も、情報も、一つに集めすぎない。
その夜、白灯が庵の裏で低く鳴いた。
「にゃっ」
茶丸は既に縁側から消えている。
弥七が灯りを消し、茶太郎を部屋の奥へ下がらせた。
「ここから出るな」
しばらくして、裏庭から人の声がした。
「離せ……!」
だが、影猫衆は男へ飛びかかっていなかった。
茶丸は男の退路に座り、白灯は庵へ戻る道を示すように何度も振り返っている。
男は逃げようとするたび、暗闇の中から猫の目に見つめられ、とうとう縁側まで戻ってきた。
弥七が男の刀を預かった。
「誰を斬りに来た?」
「斬りに来たのではない」
浪人は四十を過ぎているように見えた。
頬は痩せ、着物は擦り切れている。それでも腰紐と脚絆は、長旅に慣れた者の結び方だった。
「久我家の家印が、宇治で見つかったと聞いた。確かめに来ただけだ」
「夜中に忍び込んでか?」
「表から聞けば、消されると思った」
水叟が土間へ下りた。
浪人の目が、水叟の手元へ止まる。
水叟は濡れた米袋の口を、二度返してから横へ締める独特の結び方で閉じていた。
浪人の顔から血の気が引く。
「その結び……」
水叟は何も答えない。
浪人は膝をつきかけた。
「まさか……殿——」
水叟が米袋を置いた。
「ここにいるのは、水月庵の寺男だ」
声は静かだった。
けれど、その一言には命令に慣れた者の重さがあった。
浪人は口を閉ざした。
茶太郎には二人の関係が分からない。
だが、浪人の震える手を見れば、長い間探していた人に会ったことだけは伝わった。
水叟は茶太郎へ言った。
「粥は残っているか?」
「少しだけ」
「この者にも一椀」
浪人が顔を上げる。
「私は、忍び込んだのですぞ」
「腹を空かせた者を問い詰めても、恐れから出た言葉しか返らん」
茶太郎は、残った米粥を温めた。
茸の出汁を足し、塩をほんの少し。
名を付けるほど特別な料理ではない。
雨の夜に、冷えた身体を戻すための粥だった。
浪人は一口すすり、俯いた。
「……同じ味です」
「何と同じなの?」
茶太郎が尋ねても、浪人は答えなかった。
水叟も説明しない。
ただ、空になった椀を自分の前へ引き寄せ、黙って洗い始めた。
城主へ仕えた者と、城を失った者。
二人の間に謝罪も、再会の言葉もなかった。
それでも、一人が椀を食べ、一人がその椀を洗う所作だけで、切れたはずの主従の縁がまだ残っていると分かった。
やがて浪人は名乗った。
「名は佐吉。かつて久我家の米蔵を預かっておりました」
弥七が問う。
「なぜ今になって家印を探す?」
「下京で、古い蔵の持ち主を巡る争いが起きている。久我家が滅びたとして、蔵と土地を奪おうとする者がおるのです」
水叟の目が鋭くなる。
「蔵には何がある」
「米はほとんど残っておりません。ただ、大火から逃れた者を受け入れるには使える。町組は救恤蔵にしたいと申しております」
「ならば、守るべきは家名ではない」
「では、何を?」
「蔵の役目だ」
水叟は、茶太郎が作った三つの備蓄帳を佐吉へ見せた。
「久我家の蔵として取り戻せば、また家同士の争いになる。下京の者が共同で預かり、米、薬、薪を分散して置ける仕組みにせよ」
佐吉は唇を噛んだ。
「殿のお名前を出せば、話は早く進みます」
「出すな」
水叟の返答に迷いはなかった。
「死んだ城主の名で人を従わせれば、新しい蔵も古い城と同じになる」
茶太郎は、煤の下から現れた家印を思い出した。
消さずに残す。
けれど、今の人々を縛るためには使わない。
「ぼくも下京へ行きます」
茶太郎が言った。
「水月庵でやったことを、町の人に説明する。水叟さんの名前を出さなくても、百俵を分けて守った方法は伝えられるから」
水叟はしばらく茶太郎を見つめ、頷いた。
「では、料理より先に蔵の出口を見よ」
「帰り道も」
「忘れるな」
夜が明ける頃、佐吉は水月庵を出た。
去り際にも、水叟を殿とは呼ばなかった。
ただ道の端へ膝をつき、かつての主が見えなくなるまで頭を下げていた。
茶太郎は、その背を追わなかった。
名乗れない人には、名乗れないまま守ろうとしているものがある。
次に茶太郎が向かうのは、焼け跡から立ち上がりつつある下京。
そこでは百俵より大きなもの——誰のものでもない蔵を、誰が守るのかという争いが待っていた。




