第204話 「灰を分ける印と、水輪の膏石鹸」
――燃えた後にも、役目は残る――
水月庵から伏見へ戻った茶太郎は、繕い所の前で足を止めた。
庭には三つの灰桶が置かれていた。
共同炊事場から出た灰。
甚八の鍛冶場から出た灰。
どこから運ばれたのか分からない灰。
「灰なら、どれも同じやろ?」
六助が言うと、甚八が首を横に振った。
「同じやない。鍛冶場の灰には、金屑や石炭の残りが混じることがある。何を燃やしたか分からん灰には、塗料や汚れた布の燃えかすが入っとるかもしれん」
水叟の言葉を、茶太郎は思い出した。
物を守るなら、数だけでなく、どこから来たかを記せ。
「料理に使った、きれいな薪の灰だけを分けよう」
千代が木札を用意した。
白い輪は、薪だけを燃やした竈の灰。
黒い三本線は、鍛冶場の灰。
斜め印は、出所不明。
「白い輪以外は、洗い物に使わへん」
千代が決まりを書き加える。
影猫衆も灰を運ばない。
白灯と虎吉は、灰が無断で捨てられている場所を見つけ、人へ知らせるだけだ。
触れてよいかを決めるのは、竈を管理する大人と職人だった。
集めた薪灰は、目の細かい籠で炭や釘を取り除いた。
それを水へ浸し、しばらく置く。
灰が沈むと、上には薄く色づいた液体が残った。
「これが灰汁や」
お律が柄杓を持つ。
「汚れを落とす力はある。せやけど、濃ければ手も布も傷める。子どもは触ったらあかん」
灰汁を扱う場所は、井戸と厨房から離した。
専用の桶。
専用の柄杓。
専用の布手袋。
使った量と、薄めた水の量も帳面へ残す。
最初の試し洗いには、柳生から持ち帰った泥布の切れ端を使った。
お律が薄めた灰汁へ布を浸し、棒で静かに動かす。
しばらくして取り出すと、泥と油の一部が落ちていた。
「きれいになった!」
茶太郎が喜んだが、乾いた布を引っ張った千代の表情が曇る。
「前より弱うなってへん?」
布の端が、ぷつりと切れた。
灰汁が濃すぎたのだ。
「汚れが落ちても、布まで傷めたら繕いにならへん」
お律は失敗した切れ端を、成功品の籠へ入れなかった。
濃さを半分にし、浸す時間も短くする。
さらに、同じ古布を三枚用意した。
一枚は水洗いだけ。
一枚は薄い灰汁。
一枚は少し濃い灰汁。
乾かした後、同じ重さの石を包んで持ち上げる。
水洗いだけでは油染みが残った。
濃い灰汁の布は、早く裂けた。
薄い灰汁で短く洗った布が、最も汚れと強さの釣り合いがよかった。
六助は結果を木札へ描いた。
「泡が多い方が強いんと違うんやな」
「強すぎる力は、守りたい物まで壊すんだよ」
次に試したのは、鍋の底や雨覆いへ付いた油汚れだった。
薄い灰汁だけでは落ちにくい。
そこで、大人たちは料理で残った使い道のない脂を集めた。ただし、腐った脂や正体不明の油は使わない。
脂を温め、少量の灰汁を加え、木べらでゆっくり混ぜる。
火と灰汁の両方を扱うため、茶太郎たちは縄の外から見守った。
すぐには固まらない。
出来上がったのは、茶色がかった柔らかな膏のようなものだった。
お律が古布へ少量を付け、専用の板の上で洗う。
油が浮いたところで、たっぷりの水ですすいだ。
「石みたいな石鹸やないんやな」
友照が言う。
「うん。柔らかいから、蓋のある壺に入れよう」
名は——
《水輪灰膏》。
洗濯や油汚れ落としに使うものであり、薬ではない。
傷口へ塗らない。
食べ物へ触れる器には残さない。
使った後は、ぬめりが消えるまでよくすすぐ。
子どもだけでは扱わない。
注意書きは、《水輪宿紙》へ大きな印とともに記された。
洗い直した古布は、柿渋を塗る前よりむらが少なくなった。
だが、全てが救えたわけではない。
裂けた布は詰め物へ。
短い繊維は火口へ。
洗っても臭いが残る布は、生活用品へ戻さず処分する。
「使える物だけ使うんやな」
六助が言った。
「うん。何でも救えるって言ったら、それは嘘になるから」
夕方、水叟から一枚の木札が届いた。
そこには、百俵を置いた三つの蔵と、灰を出した竈の場所が描かれていた。
裏には短い言葉。
『物の出所を記せば、失敗の戻り道が見える』
茶太郎は、その札を繕い所の壁へ掛けた。
すると千代が、庭の隅に積まれた白い欠片を指した。
「茶太郎。これは、どこへ分けるん?」
炊き出しで使った魚や鳥の骨だった。
煮ても食べられず、燃やせば白い灰になる。
茶太郎はすぐに答えず、帳面へ新しい欄を作った。
「次は、骨が何に戻れるのか調べよう」
燃えた後の灰にも、食べ終えた骨にも——まだ知らない役目が残されていた。




