第196話 「友照の蜂分かれと、水霊初蜜の蜂蜜湯」
――離れていくものに、新しい居場所を――
伏見の共同炊事場へ、高山友照が駆け込んできたのは、石井の御香水を神前へ返した翌朝だった。
まだ七歳の友照は、息を切らしながら叫んだ。
「茶太郎、大変や! 蜂が逃げてまう!」
摂津から運んできた巣箱の周りを、日本蜜蜂の群れが激しく飛び交っていた。
ぶうん、ぶうん——。
黒い雲のような蜂の群れに、六助と小春が炊事場の陰へ隠れる。
白灯も毛を逆立てた。
「にゃっ……!」
友照は巣箱の入口へ布を詰めようとした。
「出られへんようにしたら——」
「塞いじゃだめ!」
茶太郎の声に、友照の手が止まった。
「蜂は逃げるんじゃない。家族が増えたから、分かれて新しい家を探してるんだと思う」
「分かれて……?」
「うん。“蜂分かれ”だよ」
茶太郎には、前世で知った養蜂の記憶があった。
けれど、蜂を捕まえる技術も、巣箱を扱った経験もない。知っていることと、できることは違う。
茶太郎は近くの養蜂に慣れた老人を呼び、子どもたちを巣箱から離れさせた。
「友照も、ここから見よう。刺されるかもしれないから、近づくのは大人に任せよう」
「……俺の蜂やのに」
「だからこそ、無理をしないで守るんだよ」
やがて蜂の群れは、庭の低い枝へ集まり、大きな塊になった。
老人は煙を乱用せず、蜂の動きが落ち着くのを待った。その間に、乾いた丸太をくり抜いた新しい巣箱を用意する。
雨の当たらない場所。
朝日が差し、昼には陰になる場所。
風で揺れず、地面の湿りが上がりにくい台。
内側には、古い蜜蝋の香りをわずかに移した。
茶太郎が場所を確かめ、友照が最後の候補を選んだ。
「ここや。元の巣箱も見えるし、風も強うない」
老人が枝ごと蜂の群れを受け止め、新しい巣箱へ静かに移す。
誰も声を上げなかった。
小さな命が、新しい家へ入っていく。
その光景を見つめる友照の拳は、固く握られていた。
「……俺が嫌で、出ていったんやないんやな」
「うん。友照が育てたから、家族が増えたんだよ」
友照は答えなかった。
ただ、新しい巣箱の前へ小さな水皿を置いた。
言葉ではなく、その所作が、離れていく蜂を新しい家族として認めていた。
夕方、二つの巣箱には、それぞれ蜂が出入りしていた。
友照が蜜を採ろうとすると、茶太郎は首を横に振った。
「新しい巣の蜜は残そう。これから巣を作って、冬を越すために必要だから」
「売らへんのか?」
「蜂が生きられなくなったら、来年の蜜もないよ」
友照はしばらく考え、古い巣から採ってあった蜜壺を抱え直した。
「ほな、今日は一匙だけや。残りは蜂と、次の季節の分」
「うん。それがいい」
茶太郎は沸かして少し冷ました白湯へ、蜂蜜を一匙だけ溶かした。
甘い香りが、疲れた子どもたちを包む。
料理名は——
《水霊初蜜の蜂蜜湯》。
六助が一口飲み、目を丸くした。
「甘い……けど、喉にべたべた残らへん」
小春も両手で椀を包んだ。
「あったかい」
友照は最後に口をつけた。
「蜂が作った味や」
「友照が守った味でもあるよ」
今度こそ、友照は照れくさそうに笑った。
そのとき、炊事場の外で馬が止まった。
三好家の使番が、汗に濡れた姿で転がり込んでくる。
「水を……頼む。槙島から伏見まで走り通しや……」
茶太郎はすぐに日陰へ案内し、白湯と蜂蜜湯を少しずつ飲ませた。
使番は息を整えてから、蜜壺を見た。
「これを……道中へ持っていけへんか。暑い日の使いには助かる」
友照は蜜壺を胸へ抱いた。
「蜂蜜を全部、使番へ渡すんはあかん。蜂の冬の分がなくなる」
茶太郎も頷いた。
「蜂蜜だけでは数を作れないよ。でも、穀物の水飴に少し混ぜれば……」
「水飴?」
「走る人が、少しずつ白湯へ溶かせる形にできるかもしれない」
使番の目に、期待が戻った。
友照は二つの巣箱を見比べ、ゆっくりと蜜壺を差し出した。
「試す分だけや。蜂の暮らしを削らへん約束なら、俺も手伝う」
「約束する」
茶太郎と友照は、蜜壺を挟んで指を重ねた。
新しい家を得た蜂。
役目を得ようとする甘い一匙。
その小さな縁がやがて、戦場ではなく、人の言葉を一刻も早く届ける道を走り始めることを——二人はまだ知らなかった。




