第195話 「石井の御香水と、汲み尽くさない約束」
――尊い水を、自分たちだけのものにしない――
御香宮の境内には、春の朝でも冷たい気配が残っていた。
茶太郎、千代、六助、小春は、神職に導かれて石組みのそばへ進む。
石の間から湧く水は澄み、かすかな流れの音を響かせていた。
「これが、石井の御香水ですか?」
「そうじゃ」
老神職が答える。
「古く貞観の御代、この地から香りある水が湧き、その水を飲んだ者の病が癒えたという。清和天皇より“御香宮”の名を賜ったと伝わる霊泉よ」
六助が鼻を近づける。
「花の匂いはせえへん」
「昔の“香る”は、鼻だけで嗅ぐものとは限らぬ。清らかで、よい水という讃え方でもあろう」
千代は持参した小桶を差し出した。
「この水を四桶、分けてください」
「ならぬ」
返事は早かった。
千代の顔が強張る。
「銭なら払います」
「銭の問題ではない。ここへ水を求めるのは、お前たちだけではない」
病人の家族。
茶を点てる者。
神前へ供える者。
日々の祈りとして、一椀の水を汲む者。
伏見共同台所が甘酒を量産するために使えば、ほかの者が汲める分を奪うことになる。
「でも、御香水で作ったら、きっとよく売れる」
六助が言った。
神職は静かに首を振る。
「霊泉の名を付ければ、高う売れるであろう。だからこそ、簡単に許してはならぬ」
茶太郎は石井を見つめた。
良い銭だけを自分たちの箱へ集め、悪い銭を誰かへ押しつければ、最後に困る者が出る。
水も同じだ。
良い水を自分たちだけで使えば、その負担は見えない誰かへ流れる。
「甘酒を売るためには使いません」
茶太郎は頭を下げた。
「でも、一度だけ小さく仕込んで、神さまへお供えしたいです。伏見の水にありがとうって伝えるために」
神職はしばらく考え、小さな竹筒を一本だけ用意した。
「奉納の一仕込みに限る。残った水まで商品へ混ぜてはならぬ」
「約束します」
千代も、不満そうな顔をしながら頭を下げた。
「うちも守ります」
四人は、その場で一口ずつ御香水をいただいた。
冷たさ。
舌触り。
飲み込んだ後に残る、わずかな重み。
茶太郎は霊性味覚を働かせたが、特別な力で水の安全がすべて分かるわけではない。
ナギも地下の流れは感じられても、目に見えない汚れのすべてを見抜けるわけではなかった。
「きれいに見える水でも、料理には煮沸して使う」
茶太郎が言うと、千代もうなずいた。
「桶と布も、今までどおり洗う。御香水やからって、手順は省かへん」
共同台所へ戻った一行は、濁った井戸を調べた。
石工と井戸掘りが立ち会い、井戸枠の一部が崩れていることを見つける。
雨水が地表の泥を巻き込み、隙間から入り込んでいたのだ。
原因を見つけたのは霊力ではない。
石のずれと、水の流れを確かめた職人たちだった。
井戸枠を直し、周囲へ浅い溝を掘って、雨水を離れた場所へ流す。
濁りが消えるまでは、甘酒の仕込みを止めた。
その間、共同輸送で別の井戸から水を運んだが、運べる量だけに生産を減らした。
数日後。
水が澄んだことを職人が確かめ、汲み上げた水を煮沸する。
千代は少量の米麹と合わせ、試しの一桶だけを仕込んだ。
以前の味に戻った。
「御香水と同じではないね」
茶太郎が言う。
「同じにせんでええ」
千代は共同井戸の水を口に含んだ。
「これは、この蔵の甘酒の味や」
御香水は、ほかの水を偽物にするための基準ではない。
伏見には、それぞれの場所を流れ、それぞれの暮らしを支える水がある。
大切なのは、その水を汚さず、異変があれば仕込みを止めることだった。
茶太郎たちは新たに《水帳》を作った。
水を汲んだ場所。
天候。
見た目と匂い。
井戸や桶に異常がなかったか。
煮沸した時刻。
味に違いがあれば、仕込みを始める前に記す。
御香水を写す帳面ではない。
自分たちの使う水へ、責任を持つための帳面だった。
そして奉納の日。
竹筒に分けてもらった石井の御香水を使い、小さな一桶だけ甘酒を仕込んだ。
米、米麹、御香水。
ほかには何も加えない。
《水霊石井の奉納甘酒》。
最初の一椀を神前へ供える。
慶寿院も、幼い菊童丸を伴って参詣していた。
菊童丸は甘酒の椀を見つけたが、すぐには手を伸ばさない。
先に小春が飲み、笑ったのを見てから、自分も小さな匙で一口すくった。
「……あまい」
「砂糖は入ってへんよ」
千代が得意げに言う。
「麹が、お米の甘さを引き出したんや」
奉納後の甘酒は、参列した者へ少しずつ分けられた。
販売はしない。
“御香水仕込み”の札も作らない。
その一桶は、伏見の水を独占しないという約束の味として、人々の腹へ消えていった。
参詣を終えた茶太郎が鳥居へ向かうと、一人の少年が待っていた。
摂津から来た高山友照だった。
腕には、小さな蜜壺を抱えている。
「茶太郎、やっと最初の蜂蜜が採れた」
喜びを伝えに来た顔ではない。
「でも、蜂たちが巣を出ようとしてる。このままやと、みんな飛んでいってしまう」
伏見の水を守った次は、摂津で育てた蜂の群れを守る番だった。




