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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第四章 ~六歳の茶太郎、伏見から畿内へ――人と道を結ぶ水輪~
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第195話 「石井の御香水と、汲み尽くさない約束」

 ――尊い水を、自分たちだけのものにしない――


 御香宮ごこうのみやの境内には、春の朝でも冷たい気配が残っていた。


 茶太郎、千代ちよ六助ろくすけ小春こはるは、神職に導かれて石組みのそばへ進む。

 石の間から湧く水は澄み、かすかな流れの音を響かせていた。


「これが、石井の御香水いわいのごこうすいですか?」


「そうじゃ」


 老神職が答える。


「古く貞観の御代、この地から香りある水が湧き、その水を飲んだ者の病が癒えたという。清和天皇より“御香宮”の名を賜ったと伝わる霊泉よ」


 六助が鼻を近づける。


「花の匂いはせえへん」


「昔の“香る”は、鼻だけで嗅ぐものとは限らぬ。清らかで、よい水という讃え方でもあろう」


 千代は持参した小桶を差し出した。


「この水を四桶、分けてください」


「ならぬ」


 返事は早かった。

 千代の顔が強張る。


「銭なら払います」


「銭の問題ではない。ここへ水を求めるのは、お前たちだけではない」


 病人の家族。

 茶を点てる者。

 神前へ供える者。

 日々の祈りとして、一椀の水を汲む者。


 伏見共同台所が甘酒を量産するために使えば、ほかの者が汲める分を奪うことになる。


「でも、御香水で作ったら、きっとよく売れる」


 六助が言った。

 神職は静かに首を振る。


「霊泉の名を付ければ、高う売れるであろう。だからこそ、簡単に許してはならぬ」


 茶太郎は石井を見つめた。

 良い銭だけを自分たちの箱へ集め、悪い銭を誰かへ押しつければ、最後に困る者が出る。


 水も同じだ。

 良い水を自分たちだけで使えば、その負担は見えない誰かへ流れる。


「甘酒を売るためには使いません」


 茶太郎は頭を下げた。


「でも、一度だけ小さく仕込んで、神さまへお供えしたいです。伏見の水にありがとうって伝えるために」


 神職はしばらく考え、小さな竹筒を一本だけ用意した。


「奉納の一仕込みに限る。残った水まで商品へ混ぜてはならぬ」


「約束します」


 千代も、不満そうな顔をしながら頭を下げた。


「うちも守ります」


 四人は、その場で一口ずつ御香水をいただいた。


 冷たさ。

 舌触り。

 飲み込んだ後に残る、わずかな重み。


 茶太郎は霊性味覚を働かせたが、特別な力で水の安全がすべて分かるわけではない。

 ナギも地下の流れは感じられても、目に見えない汚れのすべてを見抜けるわけではなかった。


「きれいに見える水でも、料理には煮沸して使う」


 茶太郎が言うと、千代もうなずいた。


「桶と布も、今までどおり洗う。御香水やからって、手順は省かへん」


 共同台所へ戻った一行は、濁った井戸を調べた。

 石工と井戸掘りが立ち会い、井戸枠の一部が崩れていることを見つける。


 雨水が地表の泥を巻き込み、隙間から入り込んでいたのだ。


 原因を見つけたのは霊力ではない。

 石のずれと、水の流れを確かめた職人たちだった。


 井戸枠を直し、周囲へ浅い溝を掘って、雨水を離れた場所へ流す。

 濁りが消えるまでは、甘酒の仕込みを止めた。

 その間、共同輸送で別の井戸から水を運んだが、運べる量だけに生産を減らした。


 数日後。


 水が澄んだことを職人が確かめ、汲み上げた水を煮沸する。

 千代は少量の米麹と合わせ、試しの一桶だけを仕込んだ。


 以前の味に戻った。


「御香水と同じではないね」


 茶太郎が言う。


「同じにせんでええ」


 千代は共同井戸の水を口に含んだ。


「これは、この蔵の甘酒の味や」


 御香水は、ほかの水を偽物にするための基準ではない。

 伏見には、それぞれの場所を流れ、それぞれの暮らしを支える水がある。

 大切なのは、その水を汚さず、異変があれば仕込みを止めることだった。


 茶太郎たちは新たに《水帳みずちょう》を作った。


 水を汲んだ場所。

 天候。

 見た目と匂い。

 井戸や桶に異常がなかったか。

 煮沸した時刻。

 味に違いがあれば、仕込みを始める前に記す。


 御香水を写す帳面ではない。

 自分たちの使う水へ、責任を持つための帳面だった。


 そして奉納の日。


 竹筒に分けてもらった石井の御香水を使い、小さな一桶だけ甘酒を仕込んだ。

 米、米麹、御香水。

 ほかには何も加えない。


 《水霊石井すいれいいわいの奉納甘酒》。


 最初の一椀を神前へ供える。

 慶寿院けいじゅいんも、幼い菊童丸きくどうまるを伴って参詣していた。


 菊童丸は甘酒の椀を見つけたが、すぐには手を伸ばさない。

 先に小春が飲み、笑ったのを見てから、自分も小さな匙で一口すくった。


「……あまい」


「砂糖は入ってへんよ」


 千代が得意げに言う。


「麹が、お米の甘さを引き出したんや」


 奉納後の甘酒は、参列した者へ少しずつ分けられた。

 販売はしない。

 “御香水仕込み”の札も作らない。


 その一桶は、伏見の水を独占しないという約束の味として、人々の腹へ消えていった。


 参詣を終えた茶太郎が鳥居へ向かうと、一人の少年が待っていた。

 摂津から来た高山友照たかやま・ともてるだった。

 腕には、小さな蜜壺を抱えている。


「茶太郎、やっと最初の蜂蜜が採れた」


 喜びを伝えに来た顔ではない。


「でも、蜂たちが巣を出ようとしてる。このままやと、みんな飛んでいってしまう」


 伏見の水を守った次は、摂津で育てた蜂の群れを守る番だった。

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『茶太郎がゆく』
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