第194話 「使えない三文と、悪銭を押しつけない約束」
――損を、いちばん弱い者へ流さない――
六助の掌には、三枚の銭が載っていた。
一枚は縁が欠けている。
一枚は薄く、文字が潰れている。
残る一枚には、ひびが入っていた。
「同じ一文として、蔵でもろた」
六助は唇を噛んだ。
「でも草履屋では、一枚も使えへんかった」
千代が自分の賃金を出す。
こちらは市で受け取ってもらえる銭だった。
「同じ仕事したのに、なんで六助だけ損するん」
支払箱を用意した役人は、故意ではないと弁明した。
「注文の代金として受け取った銭を、数どおり分けただけだ」
「数が同じでも、使えなかったら同じじゃないよ」
茶太郎は六助の三枚と、千代の三枚を並べた。
味の違う甘酒を、同じ品として混ぜて売ることはしない。
なのに銭だけは、見た目も通り方も違うものを同じ一文として渡していた。
「六助の銭を、良い銭と替えればよい」
役人が言った。
「その悪い銭は、次の支払いへ混ぜておけ」
「次の人が困るよ」
「受け取った者が、また使えばよいだけだ」
「使えないから戻ってきたんだよ」
悪銭を誰かへ渡して終わりにすれば、最後には断れない者が損をする。
幼い奉公人。
旅人。
立場の弱い売り手。
あるいは、六助のように銭の違いを教わっていない子ども。
日野小夜は、その日の売上箱を封じた。
「出所を確認するまで、賃金への支払いを止めます。ただし働いた者へは、別の積立から先に支払います」
六助には、使えることを確認した三文が渡された。
悪銭を受け取った責任を、六歳の働き手へ負わせないためだ。
翌日、墨屋宗白が伏見へ呼ばれた。
宗白は銭を一枚ずつ、板の上へ並べる。
文字の明瞭な渡来銭。
薄く鋳写された銭。
欠けた銭。
ひびのある銭。
穴が歪み、銭差しへ通しにくいもの。
「どれが使えるの?」
茶太郎が尋ねる。
「相手と場所による」
宗白は答えた。
「下京で受け取られる銭が、大津では嫌われることもある。昨日まで通った銭を、今日は商人が断ることもある」
「じゃあ、正しい答えはないの?」
「銭一枚に刻まれた文字だけでは決まらん。皆が受け取ると思うから、銭として通る」
幕府や大名は、ひどく粗悪な銭を除き、銭を選り好みせず一文として使わせようとしてきた。
だが市では、悪銭を嫌う者が後を絶たない。
すべての悪銭を禁じれば、使える銭そのものが足りなくなる。
何でも同じ一文とすれば、粗悪な銭を押しつける者が得をする。
「新しい銭を作れば?」
六助が尋ねた。
「勝手に銭を鋳れば、それこそ悪銭を増やす」
宗白はきっぱり否定した。
伏見共同台所に、国の銭を作り替える権限はない。
茶太郎たちは、世の中すべての銭を直そうとするのをやめた。
代わりに、自分たちの売買と賃金だけは、誰かへ悪銭を押しつけないようにする。
まず、甘酒を売る時は、受け取れる銭の見本を板へ結びつける。
《通用銭見本板》。
文字が読めない者でも、形や厚さを見比べられる。
ただし見本は永遠の決まりではない。
市で通る銭が変われば、町組と銭商の立ち会いで更新する。
次に、欠け銭や薄い銭を受け取る場合は、先に交換条件を示す。
支払いが終わった後で、突然価値を下げない。
賃金は、伏見の市で実際に使えることを確かめた銭で払う。
受け取った悪銭は、次の働き手へ回さず、まとめて銭商へ持ち込み、提示された条件で交換する。
交換による損は、共同台所の売上から負担する。
「なんで蔵が損するん?」
千代が尋ねた。
「味を確かめずに銭を受け取ったのは、蔵の仕事の失敗だから」
茶太郎は答えた。
「六助の失敗じゃないよ」
小夜が注文ごとの支払いを調べると、悪銭は一つの家から来たものではなかった。
幕府、三好、六角、町商人。
どの支払いにも少しずつ混じっていた。
誰か一人の悪意ではなく、皆が自分の手元から悪い銭を減らそうとした結果だった。
四者へ事情を伝えると、次回から支払箱をその場で開き、双方で見本板と照らすことが決まった。
その日の夕方。
六助は新しい草履を履いて、共同台所へ戻ってきた。
「ちゃんと買えた」
それだけ言って、古い草履を捨てずに洗い始める。
まだ使える紐を外し、小春の草履直しに使うつもりだった。
茶太郎は、その所作を黙って見ていた。
六助は三文を失いかけたことで、銭の怖さを知った。
それでも、得たものを自分だけで使い切ろうとはしなかった。
数日後、甘酒の次の仕込みが始まった。
ところが、共同井戸から汲んだ水が雨の後でわずかに濁り、千代が作業を止めた。
「この水では仕込まへん」
「煮沸しても、まず原因を確かめた方がいい」
茶太郎も同意した。
伏見町組の古老は、二人へ御香宮神社の方角を示した。
「水の違いを知りたいなら、石井の御香水を訪ねなされ。あの水は、伏見の者が昔から守ってきた水や」
悪銭を見分ける見本板を作った茶太郎たちは、次に甘酒の味を支える“水の基準”を求め、御香宮へ向かうことになった。




