第192話 「麹を守る少女と、六人の蔵」
――助ける前に、そこが誰かの居場所だと知る――
「この麹は、うちらのや」
少女は温かな鉢を抱え、茶太郎を睨んでいた。
名は千代。七歳。
伏見の麹屋で育ち、火事で家族と離れた後、五人の子どもと古い酒蔵で暮らしてきたという。
鉢の中身は、今仕込んだ米麹。
そのほかに、乾かした種麹を小さな壺へ分け、床下に隠していた。
「この蔵は四家の取り決めで、共同の荷改め所となる」
幕府方の役人が告げた。
「子どもらには別の寝所を探す。麹も台所で役立てよう」
「取る気やん!」
千代が鉢を胸へ抱き込む。
背後の子どもたちも棒を構えた。
「役立ててやると言えば、奪ってもええんか!」
役人が言葉を失う。
茶太郎は千代の前へしゃがんだ。
「触らないよ」
「偉い人と一緒に来たやん」
「うん。でも、麹をもらうって決めてない」
「蔵は?」
茶太郎は答えられなかった。
建物の持ち主を確かめ、共同台所にする許しは得ている。
けれど、ここで眠り、雨をしのいできた子どもたちには、誰も話を聞いていない。
茶太郎は役人たちを外へ出した。
それから、六人へ一人ずつ尋ねた。
「ここにいたい?」
千代は、即座にうなずいた。
六歳の六助は、壊れた戸を指した。
「直すなら、ここがええ」
五歳の小春は、裏庭の小さな墓標から離れたくないと言った。
残る三人も、別々の理由で蔵に残ることを望んだ。
六人は一つの固まりではない。
千代が代表して話しても、全員が同じ気持ちとは限らなかった。
日野小夜は、その言葉を一つずつ帳面へ記した。
話し合いの末、蔵を三つに分けることになった。
表は荷を確かめる場所。
土間は共同台所。
奥の座敷と裏庭は、子どもたちの暮らす場所として残す。
大人が勝手に奥へ入らないよう、境に結び簾を掛けた。
夜は伏見町組から選ばれた女衆が交代で泊まる。
ただし、その者が嫌だと子どもたちが訴えた時は、別の者へ替える。
「仕事もする」
千代が言った。
「住まわせてもらう代わり、やないで。麹の仕事なら、うちに銭を払って」
小夜は迷わずうなずいた。
「材料費、売上、働いた時間を分けて記します。住む権利と働く対価も、別です」
幼い子どもへ危険な火や重い桶は扱わせない。
夜通しの番もさせない。
千代たちが担うのは、麹の香りや手触りを見ること、布を替えること、印札を付けること。
蒸米や熱湯、大桶の運搬は大人の仕事とした。
ようやく千代は、米麹の鉢を茶太郎へ見せた。
白い菌糸が米粒を包み、栗に似た甘い香りがする。
「お母ちゃんが言うてた。麹は熱すぎても死ぬ。冷えすぎても育たん。手を当てて、嫌がってへんか聞くんや」
茶太郎も手をかざした。
霊性味覚には、穏やかな甘みが伝わってくる。
だが、麹を育てたのは霊力ではない。
千代が温度を見て、布を替え、米をほぐしてきた結果だった。
「これで甘酒を作りたい」
「どれくらい?」
「大きな桶、一つ」
千代は首を横へ振った。
「いきなり大きくしたら、真ん中の熱が逃げへん」
茶太郎は三好家の大鍋に慣れ、大きく作れば多くの人へ届けられると思っていた。
だが、出汁と発酵は違う。
「じゃあ、小さな桶で試そう」
三つの桶を用意した。
一つ目は、これまでどおりの温かさ。
二つ目は少し水を多く。
三つ目は蒸米を少なくし、麹の割合を変える。
桶は熱湯を扱える大人が洗い、十分に乾かした。
炊いた米、米麹、白湯を合わせ、布と藁で包む。
温度計はない。
茶太郎と千代が手を当て、熱くなりすぎれば包みを緩め、冷えれば藁を足した。
ところが、最初の一桶から酸っぱい匂いがした。
六助が顔をしかめる。
「いつもの匂いと違う」
「捨てる」
千代は惜しまず決めた。
「甘うしても、変な匂いは隠れへん」
原因は、桶の底に残っていた古いひびだった。
洗ったつもりでも、汚れが入り込んでいたのだ。
その桶は発酵に使わず、修理できるか職人へ預ける。
残る二桶は、翌朝、やさしい甘さに仕上がった。
砂糖も酒も加えていない。
米と米麹だけの《伏見水輪の甘酒》。
茶太郎が一口飲む。
「甘い……でも、前に作った水輪甘酒より、お米の香りが残ってる」
「水を入れすぎへん方や」
千代は誇らしげに答えた。
六助は桶ごとの米と水の量を木札へ刻む。
小春は白い組紐を結び、成功した桶と捨てた桶を区別する。
六人全員に、無理のない役目が一つずつ生まれた。
最初にできた甘酒は売らず、蔵を直した大工、掃除をした女衆、荷を運んだ馬借、そして子どもたちで分けた。
千代は自分の椀を飲み干すと、茶太郎へ言った。
「ここ、偉い人の蔵やないな?」
「うん。誰か一人の蔵にしない」
「うちらも、追い出されへんな?」
「追い出したい人がいたら、先にみんなで話す」
千代はようやく、鉢を抱いていた腕の力を抜いた。
数日後。
伏見の蔵には、幕府、三好、六角、下京の商人から甘酒の注文が届いた。
合わせれば、試作した量の十倍を超える。
役人たちは増産を喜んだ。
だが茶太郎と千代は、同時に首を横へ振った。
「まだ作れません」
売れることと、作れることは違う。
六歳の料理人と七歳の麹守は、最初の大口注文を断るところから、伏見共同台所を始めた。




