第188話 「六歳の春と、菊童丸の冷めた膳」
――食べない理由を、好き嫌いと決めつけない――
天文七年、春。
茶太郎は六歳になった。
誕生日の朝を祝う暇もなく、南禅寺からの使者に伴われ、幕府御台所のもとへ急いだ。
幼い菊童丸は、膳を前に顔を背けていた。
柔らかな粥。
すり潰した蕪。
薄く溶いた味噌汁。
どれも幼子向けに整えられている。
それでも、匙を近づけると小さな手で押し返す。
「三日前から、ほとんど召し上がられません」
慶寿院の声には疲れがにじんでいた。
「水は?」
茶太郎が尋ねる。
「白湯は少し。ただ、食べ物は口へ入れようとなさらないのです」
「最初に、お医者さまに見てもらおう」
料理を作る前に、病がないか確かめる。
茶太郎が奈良で学んだ、大切な順序だった。
呼ばれていた曲直瀬道三が、菊童丸の額、喉、腹を診た。
「高い熱はない。腹もひどく張ってはおらぬ。ただ、奥歯の生える頃で、歯ぐきが少し腫れている」
固い物や熱すぎる物は避け、水分を切らさず、様子が変わればすぐ知らせるよう道三は告げた。
「されど、それだけで三日も拒むとは考えにくい」
茶太郎は、菊童丸の膳が運ばれるところから見せてもらった。
まず毒見役が粥を取る。
次に汁を飲む。
異変がないか待つ間に、料理は冷えていく。
その間、部屋の者たちは一言も話さない。
誰もが毒を恐れ、毒見役の顔色だけを見つめている。
菊童丸も、じっと毒見役を見ていた。
やがて毒見が終わり、同じ膳が幼子の前へ戻される。
匙を差し出された菊童丸は、泣いて顔を背けた。
「……怖いんだ」
茶太郎が呟く。
「何がです?」
「食べる前に、みんなが怖い顔をするから。誰かが先に食べて、ずっと何かを待ってる」
慶寿院は息を呑んだ。
数日前、毒見役の一人が腹を壊して倒れた。
原因は食事とは別のものだったが、周囲では毒ではないかと囁かれた。
その騒ぎを、菊童丸は見ていたのだ。
「この子は、食べたら誰かが倒れると思っているのかもしれない」
足利義晴が膳を見つめた。
「では、毒見をやめよと?」
「やめたら、今度は大人が怖くなるよ」
茶太郎は首を振った。
安全を捨てて安心は作れない。
だが、毒見の方法は変えられる。
坪内石斎から教わったように、料理を一つの守りだけに頼らない。
材料を受け取る者。
井戸水を確かめる者。
調理する者。
膳を運ぶ者。
それぞれを記録し、調理後の鍋から毒見分を先に別椀へ取る。
菊童丸の膳へ手をつける姿は見せない。
異常がないと確認してから、温めた別の椀へ盛りつけることにした。
茶太郎は米を柔らかく炊き、少量の葛を加えた。
歯ぐきに触れても痛みにくいよう、蕪は形がなくなるまで煮崩す。
味は昆布と干し椎茸だけ。
食欲を刺激しすぎない、ごく薄い香りに整える。
熱くないことを確かめ、二つの小椀へ同じ粥を盛った。
《水霊若葉の葛粥》。
一椀は菊童丸へ。
もう一椀は茶太郎の前へ置く。
だが茶太郎は、食べさせようとしなかった。
「ぼく、お腹が空いたから食べるね」
自分の椀から一口すくい、ゆっくり食べる。
「やわらかい。ちょっとだけ、蕪が甘いよ」
菊童丸は茶太郎を見た。
次に、自分の椀を見る。
慶寿院が匙を取ろうとしたが、茶太郎は小さく首を振った。
「自分で触りたいのかもしれない」
短い木匙を菊童丸の手元へ置く。
無理に握らせない。
急かさない。
部屋の者たちにも、見つめすぎないよう頼んだ。
しばらくして、菊童丸が匙へ手を伸ばした。
粥をすくおうとして、半分をこぼす。
誰も叱らない。
もう一度すくい、今度は少しだけ口へ運んだ。
「……ちゃ」
小さな声が漏れた。
茶太郎は笑った。
「お茶じゃないよ。葛のお粥だよ」
菊童丸は二口目を食べた。
三口目は、父の義晴へ匙を差し出す。
義晴は戸惑いながら、その一口を受けた。
「うまい」
それを見て、菊童丸が初めて笑った。
慶寿院は言葉を発さず、こぼれた粥を布で拭いた。
将軍の嫡男が汚した膳としてではない。
食べようとした幼子の跡を、大切に残すような所作だった。
その日、菊童丸が食べたのは小椀の三分の一だけ。
すべては食べられなかった。
それでも道三はうなずいた。
「一度に戻そうとするな。白湯を与え、少しずつ食べられる物を増やせばよい」
数日後、菊童丸は自分から粥の椀へ手を伸ばすようになった。
毒見と配膳の手順も見直され、幼子の前で不安を煽る沈黙は減った。
慶寿院は茶太郎へ、新しい木札を差し出した。
《幕府御膳見習》
「三好家の出汁場と、幕府の御膳所。双方で学びなさい」
「両方へ行ってもいいの?」
「だからこそ、あなたに頼みたいのです。どちらか一方の味に染まらぬように」
六歳になった茶太郎は、三好家と幕府、二つの台所へ通うことになった。
その夕刻。
南禅寺の門前には、近江の海から来た一艘の早舟が着いていた。
堅田衆の使者が携えていたのは、濡れた一通の書状。
――近江の海で、魚を積んだ船だけが三艘、戻らない。
茶太郎の新しい一年は、陸の台所ではなく、湖上の消えた船から動き始めた。




