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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第三章 ~五歳の茶太郎、伏見へ――南へ広がる水輪~
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第186話 「二十四の椀と、混ぜてはならない出汁」

 ――悪意が見えなくても、台所は止めない――


 昆布箱から見つかった紙を、茶太郎はすぐ坪内石斎つぼうち・せきさいへ渡した。


 ――評定の椀へ、魚を入れよ。


 石斎は紙を火へ投じず、端を布で挟んで保管した。


「隠さないの?」


「隠せば、同じ命令を受けた者が他にもいるか分からぬ」


 石斎は台所の者を集め、紙の文言を読み上げた。

 弟子たちの間に緊張が走る。

 魚を口にしない客の椀へ魚の出汁を入れれば、単なる間違いでは済まない。

 侮辱と受け取られ、評定そのものが壊れる。


「饗応を中止しますか」


 弟子の一人が尋ねた。


「中止せぬ」


 石斎は答えた。


「悪意の目的が評定を止めることなら、騒いで膳を引くのも相手の思うつぼだ」


 犯人の探索は三好長逸みよし・ながやすと影猫衆へ任せ、台所は料理を続ける。

 ただし、これまでと同じやり方では作らない。


 茶太郎は出汁場の品をすべて並べた。


 昆布

 干し椎茸

 魚の焼き骨

 鰹節


 同じ棚に置けば、取り違える恐れがある。


「魚は別の部屋へ移そう」


「遠くなれば、膳が遅れる」


 石斎に指摘され、茶太郎は考え直す。

 離しすぎても駄目だ。

 魚を使う出汁は隣の火口へ置くが、鍋、杓子、濾し布を分けることにした。


 精進出汁の道具には白い組紐。

 魚出汁には青い組紐。

 暗がりでも分かるよう、白い紐には二つ、青い紐には一つの結び目を作る。

 さらに、鍋を動かす時は一人で運ばない。


「持つ人と、確かめる人。二人で声を出す」


 茶太郎が提案した。


「白、精進出汁」


「白、精進出汁。確かめた」


 短い言葉を復唱してから運ぶ。

 誰かが紐を外しても、鍋の置き場所と二人の確認が残る。


 石斎はうなずいた。


「守りは一つに頼るな。紐が破られても、人が気づく。人が迷っても、場所で気づくようにせよ」


 茶太郎は文福茶釜の神水を鍋へ注いだ。

 神水は濁りや霊性の乱れを感じ取りやすくするが、混ぜられた食材を消してはくれない。


 最後に守るのは、人の目と鼻と手順である。

 昆布を水に浸し、火へかける。

 煮立たせる前に昆布を引き、干し椎茸の戻し汁を少しずつ合わせる。


 茶太郎が味を見る。


「まだ椎茸が強い……」


「客が口にする頃には、温度が下がる。その時の味で決めろ」


 石斎の助言を受け、少量を椀へ移して少し待つ。

 冷めると香りが前へ出たため、椎茸を減らし、昆布の丸い旨味を土台にした。


 《水霊清縁すいれいせいえんの共出汁》。


 魚を使わなくても、物足りなさを感じにくい澄んだ汁になった。


 饗応が始まる直前。

 白灯あかりが配膳棚へ飛び乗り、一つの杓子を嗅いだ。


「ニャッ!」


 白い紐が結ばれた杓子から、魚の匂いがした。

 誰かが紐を付け替えたのだ。

 しかし、杓子の置き場所が違っていたため、給仕も手を止める。


「これは白の場所に戻していない」


 復唱と定位置。

 二つ目の守りが働いた。


 杓子は使わず、触れた可能性のある椀もすべて洗い直す。

 配膳は少し遅れたが、二十四の椀は無事に座敷へ運ばれた。


 幕府方。

 三好方。

 近衛家の使者。

 下京町組。

 馬借の頭領。


 全員が、まず同じ精進出汁を口にする。


 近衛家の老僧が静かに息を吐いた。


「これは、誰の立場にも染まらぬ味だな」


 三好長慶みよし・ながよしが答える。


「染まらぬのではありません。誰もが口にできるところまで、余計なものを退いた味です」


 評定では、共同輸送の新しい取り決めが示された。


 荷を送る者。

 受け取る者。

 食べる者。

 運ぶ者。

 迎える町。


 五者が出発前に量、運び賃、受入場所を確かめ、それぞれの印を残す。

 事故が起きれば、誰か一方へ損を押しつけず、立ち会いの上で使途を決める。


 最初からすべての道へ広げるのではない。


 宇治、伏見、下京を結ぶ一筋で、ひと月だけ試すことになった。

 幕府方の奉公衆が印を押す。

 長慶が三好方の印を押す。

 宗白が町組の印を、馬借の頭領が蹄の印を添えた。


 小さな取り決めだが、評定は刃を抜かずに終わった。

 饗応後、石斎は茶太郎を出汁場へ呼んだ。


「今日、何が一番役に立った」


「白灯が匂いに気づいたこと」


「それだけか」


 茶太郎は考えた。


「紐と、置き場所と、声に出したこと。どれか一つだけだったら、間に合わなかった」


「覚えておけ。奇跡より、重ねた備えの方が多くの膳を守る」


 石斎は、一枚の小さな木札を渡した。

 そこには《出汁場見習》と刻まれている。


「包丁はまだ持たせぬ。だが明日から、三好家の出汁場へ通え」


 茶太郎が札を受け取った直後、長逸が慌ただしく入ってきた。


「長慶様。北山から京へ入る薪荷が、途中ですべて止められました」


 共同輸送が動き始めた同じ日。

 別の道では、冬を支える火が断たれようとしていた。

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『茶太郎がゆく』
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