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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第三章 ~五歳の茶太郎、伏見へ――南へ広がる水輪~
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第185話 「坪内石斎の切らない試験」

 ――できないことを隠さぬ者が、台所を預かる――


 三好家の包丁場には、十二本の包丁が並んでいた。

 大きな出刃、細身の刃、骨を断つ重い刃。

 どれも五歳の茶太郎には、持ち上げるだけで危うい。


 包丁台の奥に立つ男が、坪内石斎つぼうち・せきさいだった。

 鯉や鳥の扱いに優れ、三好家の饗応を支える庖丁人である。


「お前が、霊を鎮める料理を作る童か」


「茶太郎です。よろしくお願いします」


「挨拶は悪くない。では、あの鯉を切れ」


 水桶の中で、大きな鯉が尾を打った。

 三好長逸みよし・ながやすが眉をひそめる。


「石斎殿。茶太郎は五つや」


「五つでも、料理人を名乗るなら刃から逃げるな」


 石斎は、最も小さな包丁を差し出した。

 茶太郎は柄へ手を伸ばしかけ、止めた。


 刃は、稽古用とは違う。

 少し触れただけでも皮膚が裂けるほど研がれている。


「できません」


 包丁場の弟子たちがざわめいた。


「怖いのか」


「怖いです。それに、ぼくが持ったら鯉も、周りの人も傷つけるかもしれない」


「霊性で刃を操れるのではないか?」


「霊は、手の代わりに包丁を持ってくれません」


 茶丸たちの力は、危険の場所や土と水の乱れを知らせてくれる。

 だが、刃物の重さも、滑る血も、茶太郎自身の腕力も消してはくれない。


「だから、今は切れません」


 石斎はしばらく茶太郎を見つめ、包丁を引いた。


「合格だ」


「えっ?」


「できぬ仕事を、できるふりで引き受ける者が一番危うい」


 石斎は鯉を水桶へ戻した。


「試したのは腕ではない。己の限界を、客の命より後へ置く者かどうかだ」


 弟子たちの顔から笑いが消えた。

 しかし、試験は終わっていなかった。


 石斎は包丁場を指さす。


「明日の饗応は二十四名。包丁人は五名、火口は三つ。井戸から台所まで桶で四十歩。何が足りぬ」


 茶太郎は部屋を見回した。

 魚も野菜も届いている。

 薪も積まれ、器も並んでいる。


「分かりません」


「なら、見ろ。触るな。十分で答えよ」


 茶太郎は歩いた。


 一つ目の火口には大鍋。

 二つ目には焼き物の鉄鍋。

 三つ目には湯を沸かす釜が置かれる予定だ。

 だが、冷えた椀を温める湯の場所がない。


 配膳口までは長い廊下があり、料理が冷める。

 さらに、洗った器を伏せる棚はあるが、使用済みの器を戻す道と完成した料理を運ぶ道が同じだった。


「人がぶつかる」


 茶太郎は答えた。


「それから、椀を温める火がない。出す料理と下げる器も同じ道を通るから、汚れが戻ってくる」


 石斎は弟子へ命じ、縄を床へ張らせた。

 入る道と出る道を分ける。

 廊下の途中に小さな湯桶を置き、配膳前に椀を温める。

 新たな火口は増やせないため、湯沸かし釜の湯を椀温めにも使うことになった。


「料理は包丁場だけで作るものではない」


 石斎は言った。


「井戸、火、器、人の足。どれか一つが詰まれば、最高の魚も冷えた残飯になる」


 次に石斎は、茹でた蕪と刃を潰した稽古包丁を用意した。


「これを二十四切れ。同じ厚みにせよ」


 茶太郎は慎重に切った。

 最初の一枚は厚すぎた。

 二枚目は斜めになった。

 三枚目は押し潰れた。

 十二枚切った頃には腕が震え始める。


「もう一度、最初からやらせてください」


「駄目だ」


 石斎は不ぞろいな蕪を一列に並べた。


「失敗を捨てて、上手くできたものだけ見せるな。どこから崩れたかを残せ」


 厚さが乱れ始めたのは、八枚目からだった。

 握る力が落ち、刃を真下へ下ろせなくなっている。


「五枚切ったら休む」


 茶太郎は自分で決めた。


「それから、木の厚み札を横に置いて比べます」


 二度目は、速く切ることをやめた。

 五枚ごとに手を休め、厚み札と見比べる。


 完全に同じではない。

 それでも、最初よりばらつきは小さくなった。


「明日の膳で、お前が切る物はない」


 石斎が告げた。


 茶太郎の肩が落ちる。


「だが、出汁場を任せる」


「出汁を……?」


「昆布と干し椎茸を使い、すべての椀の土台となる汁を作れ。魚の味を足すかどうかは、客ごとに分ける」


 近衛家で作った《水霊三景の蕪椀》が、三好家の饗応で試されるのだ。


 石斎は二十四枚の膳札を見せた。

 幕府方、三好方、近衛家の使者、下京町組の代表。

 さらに、共同輸送を担った馬借の頭領の名まである。


「これは宴ではない」


 石斎の声が低くなる。


「京へ入る米、薪、油、味噌。その道を誰が守り、誰が数えるかを決める席だ」


 三好長慶みよし・ながよしも包丁場へ入ってきた。


「膳が乱れれば、話も乱れる。茶太郎、明日は皆が同じ汁を口へ含んでから、評定を始めたい」


 茶太郎は膳札を一枚ずつ数えた。


 二十四人。


 立場も好みも違う二十四人へ、同じ温度の一椀を届ける。

 五歳の茶太郎に任されたのは、華やかな包丁ではない。

 すべての料理の底を流れる、一つの出汁だった。


 その夜、出汁場へ運び込まれた昆布箱の底から、一枚の紙が見つかった。

 そこには墨で、こう記されていた。


 ――評定の椀へ、魚を入れよ。


 魚を口にしない客がいると知る者からの、短い命令だった。

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『茶太郎がゆく』
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