第182話 「使番・長逸の本当の名」
――名を伏せた武士と、言葉にならない詫び――
共同輸送の翌朝。
茶太郎は下京の炊事場で、大鍋の底を洗っていた。
昨夜の《水霊分かち粥》は一粒も残らなかったが、焦げついた米が鍋肌にこびりついている。
「茶太郎、力を入れすぎると転ぶぞ」
長逸が鍋を押さえてくれていた。
「大丈夫。昨日より、ちょっと上手になったから」
「それは料理やなくて、鍋洗いやろ」
「鍋をきれいにするまでが料理だって、母さんが言ってた」
「志乃さんには敵わんな」
二人が笑ったところへ、数人の三好家臣が入ってきた。
先頭の武士は長逸の姿を認めると、慌てて膝をつく。
「三好長逸様。このような所におられたのですか」
茶太郎の手が止まった。
「……みよし?」
家臣たちは、さらに頭を低くする。
「長慶様がお待ちです。家中の評定を差し置いて、なぜ鍋などを——」
「今は鍋の方が大事や」
長逸は平然と答えた。
だが茶太郎には、続く言葉が耳へ入らなかった。
初めて茶畑で会った時、長逸は槙島城から来た使番だと名乗った。
傷つき、茶太郎の粥を食べ、希太に懐かれた。
何度も一緒に宇治を歩いた。
それなのに、三好家の名を持つ本人だとは聞いていない。
「長逸さん……使番じゃなかったの?」
「使番の役目もしていた。それは嘘やない」
「でも、三好って言わなかった」
茶太郎の声は、自分でも驚くほど小さくなった。
「ぼくには、言ってくれなかった」
長逸が答えようとした時、三好家臣の一人が割って入る。
「幼子へ家中の事情を明かす必要などございませぬ。長逸様は、槙島と宇治の様子を御自ら——」
「黙れ」
長逸の声が低く響いた。
「必要があるかどうかを決めるのは、今はお前やない」
家臣たちは口を閉ざした。
長逸は茶太郎と目を合わせようとしたが、茶太郎は鍋へ顔を向けた。
「名を伏せたのには理由がある」
「理由があったら、隠していいの?」
長逸はすぐに答えなかった。
三好の名を出せば、町人は身構える。
幕府方は警戒し、宇治の者たちも本当の困り事を話さなくなる。
だから使番として歩き、人々の暮らしを自分の目で確かめていた。
それは三好家のためだけでなく、道や川を守るためでもあった。
だが、どれほど正しい理由を並べても、茶太郎が感じた寂しさは消えない。
「すまん」
長逸は、それだけ言った。
言い訳を重ねず、腰の刀を外す。
家臣へ預けるのかと思えば、炊事場の入口へ自ら置いた。
そして袖をたくし上げ、茶太郎の隣へしゃがみ込む。
「何をなさるのです!」
「鍋を洗う」
「長逸様が、そのようなことを——」
「名を隠したのは役目のためや。けど、茶太郎を傷つけたのは俺自身や。そこを家の理屈で薄めたくない」
長逸は藁束を握り、鍋底をこすり始めた。
慣れない手つきで、灰水を自分の衣へ跳ねさせる。
謝罪を受け入れろとは言わない。
許してくれとも急かさない。
ただ、茶太郎が一人で洗っていた鍋を、黙って反対側から磨いている。
茶丸が入口に座り、その所作をじっと見ていた。
「……ニャッ」
希太も刀の横へ座り、逃げ道を塞ぐように尻尾を巻く。
「にゃ(※最後までやれ)」
「猫殿らは厳しいな……」
長逸の呟きに、茶太郎は少しだけ頬を緩めた。
二人で磨くと、焦げは少しずつ剥がれていった。
やがて鍋底に鈍い光が戻る。
茶太郎は水をかけ、汚れが残っていないか確かめた。
「まだ、ちょっと怒ってる」
「そうか」
「でも……次からは、隠さないで」
「約束する。言えぬことがある時は、嘘の名でごまかさず、“今は言えぬ”と言う」
茶太郎はしばらく考え、うなずいた。
「それなら、待てるかもしれない」
そこへ三好長慶が現れた。
鍋の前へしゃがむ長逸を見ても、驚いた様子はない。
「ようやく明かしたか」
「長慶様は知ってたの?」
「無論だ」
茶太郎が頬を膨らませると、長慶は素直に頭を下げた。
「私も同じ穴の者だ。すまなかった」
十五歳の当主と、三好家の重臣。
二人が五歳の子どもへ頭を下げる姿に、家臣たちは息を呑んだ。
長慶は昨日の二つ割り荷札を差し出した。
裏には、三者を示す新しい印が刻まれている。
「次の共同輸送を続けたい。そして、届いた米で兵と町人が囲む鍋を作ってほしい」
茶太郎はすぐには返事をしなかった。
「三好の人だけの鍋にはしないよ」
「分かっている」
「幕府の人も、下京の人も、荷を運んだ人も一緒」
「それを承知で頼んでいる」
茶太郎は長逸を見る。
長逸は三好の武士として正座していた。
けれど袖には灰水の染みがあり、指先には鍋の煤が残っている。
「じゃあ、作る」
茶太郎は答えた。
「でも長逸さんも手伝ってね。今度は最初から、本当の名前で」
長逸は煤けた両手を膝につき、深く頭を下げた。
「三好長逸、しかと承った」
炊事場の外では、次の荷車へ積む米俵が並べられていた。
今度の荷札には、送り手、受取手、食べる者に加え、もう一つだけ空欄がある。
そこへ誰の名が刻まれるのか。
茶太郎たちは、まだ知らなかった。




