第19話 「影の犬と宇治殿の記憶」
――平等院の鳳凰が照らす、待ち続けた魂――
縣祭りの翌朝。
宇治の里には、まだ祭りの余韻が残っていた。軒先には畳まれた幟が並び、川向こうから片づけの声が聞こえてくる。
しかし、茶畑の秘密基地には張りつめた空気が漂っていた。
「大吉山の黒い揺れが、昨夜より強くなっています」
橋姫の言葉に、茶太郎はレオを見た。
レオの足元では、小さな獅子の影が落ち着かない様子で揺れている。
「……あの子、まだ……泣いてる」
「分かるの?」
「うん。ぼくが、名前を持ってなかったときと……似てる」
調査には、かん太と伊平じいさんも同行することになった。縣神社からは若い巫女と年長の神職が加わり、巫女の腰には命綱が結ばれている。
「声が聞こえても、ひとりでは追いません」
神職が巫女に念を押した。
「異変を感じたら、すぐに合図を。口寄せも無理には行わないように」
子どもたちを危険の先頭へ立たせるつもりはない。茶太郎たちは大人に囲まれ、日の高いうちに山へ入った。
◇
大吉山の奥へ進むにつれ、鳥の声が減っていった。
ゆかりは木々の間を見つめる。
「黒い糸の中に、白い糸が一本ある。切れそうなのに、ずっと何かを待ってる……」
希太が低く鳴いた。
茶丸も立ち止まり、鼻先を暗い茂みへ向ける。
『来るぞ』
木の根元から、墨を流したような影がにじみ出した。
四本の脚。
垂れた耳。
細い尾。
形は犬に似ていたが、顔も毛並みも定まらない。歩くたびに輪郭が崩れ、地面へ溶けていく。
「……さむい……」
影が震えた。
「……まだ、かえらない……ずっと、まってる……」
レオが一歩出ようとしたため、かん太が肩に手を置いた。
「ここから話そう。急に近づいたら、向こうも怖いやろ」
レオはうなずき、その場にしゃがんだ。
「ぼくは、レオ。きみの声……聞こえてるよ」
影犬が顔を上げる。
「……なまえ……あるの?」
「うん。ぼくが選んだ名前」
「……ぼくには、ない……」
悲しみが波のように広がった。
巫女が胸を押さえ、よろめく。神職とかん太が、すぐにその体を支えた。
「無理をしないでください」
「大丈夫です。ただ……この子自身の記憶ではないものが混ざっています」
巫女は目を閉じ、聞こえてくる声を慎重に言葉へ変えた。
「大きなお屋敷……池……帰りを待つ犬。それから、“宇治殿”と呼ばれた人の記憶……」
橋姫が静かに告げる。
「この山と川には、かつて宇治で暮らした人々の思いが幾層にも残っています。この子は、その残響を自分の記憶だと思い込んでいるのでしょう」
影犬の姿が大きく膨らんだ。
「ちがう……ぼくは、まってた!」
黒い風が巻き起こる。
伊平じいさんが瓢箪を掲げると、淡い膜が一行を包んだ。茶丸が土の壁を起こし、うじまるが地中の水脈を動かして黒い霧を湿らせる。
それでも茶太郎は料理を取り出さなかった。
この子に必要なのは、力で黙らせることではない。
「待ってたんだね」
茶太郎は結界の内側から呼びかけた。
「誰も来なくても、ずっと」
「……うん」
「寂しかった?」
「……さむかった。わすれられるのが……こわかった」
影が少しずつ縮んでいく。
レオも茶太郎の隣に座った。
「ぼくも、消えるのが怖かった。でも……怖いって言ったら、みんなが聞いてくれた」
「……ぼくも、いっていい?」
「いいよ。怖いときは、怖いって言っていい」
そのとき、巫女の唇から低い声がこぼれた。
「――待たせて、すまなかった」
神職が呼び戻そうとしたが、巫女は片手を上げた。
「大丈夫です。これは霊が憑いたのではありません。土地に残った言葉が、流れ込んできただけです」
声は途切れながら続いた。
「この宇治を去った者も、ここで命を終えた者も……帰りを待つものを残した。そなたの悲しみは、ひとりのものではない」
茶太郎には、それが藤原道長本人の声なのか分からなかった。
ただ、かつて宇治殿と呼ばれた邸に積み重なった、別れと祈りの記憶なのだと思った。
「もう……まってなくて、いいの?」
影犬が尋ねた。
「待つかどうかは、君が決めていい」
茶太郎は答えた。
「誰かの帰りを待つだけじゃなくて、自分で行きたい場所を選んでもいいんだよ」
◇
東の空から、金色の光が差し込んだ。
木々の隙間を抜けた光が羽根の形に分かれ、一羽の大きな鳥となって舞い降りる。
金色の翼。その内側には、雲に乗って楽を奏でる人々の影が浮かんでいた。
「鳳凰……?」
茶太郎が息をのむ。
橋姫は静かに頭を下げた。
「平等院の阿弥陀堂に重ねられてきた、浄土への祈りです。長い年月を経て、鳳凰の姿を借りたのでしょう」
鳳凰は言葉を発しなかった。
翼を一度だけ広げ、影犬を柔らかな光で包む。
黒い霧が無理に消されたわけではない。冷たく固まっていたものがほどけ、犬の小さな体へ戻っていく。
灰白色の毛。
丸い耳。
短い脚。
影犬は自分の姿を確かめるように、その場で一回転した。
「……ぼく、いる」
「うん。ちゃんといるよ」
レオが笑った。
茶太郎は尋ねる。
「白丸っていう名前が、昔の記憶にあったみたい。でも、それを使うかどうかは君が決めていい」
影犬はしばらく考え、白くなった前足を見つめた。
「白丸は……待ってた犬の名前。ぼくは、これから歩くから――シロがいい」
「シロ」
「うん。ぼく、シロ」
名を口にした瞬間、シロの輪郭がはっきりと定まった。
レオが手を差し出す。
「シロ。ぼくと、ともだちになってくれる?」
シロはその手の匂いを嗅ぎ、尻尾を一度振った。
「……なる」
希太も近寄り、シロの額へ鼻先を触れさせた。
鳳凰はそれを見届けると、光の羽根を散らしながら宇治川の西へ飛び去っていく。
巫女は神職に支えられ、ゆっくり息を吐いた。
「聞こえていた声が、静かになりました」
橋姫は山の奥を見つめる。
「けれど、黒い揺れがすべて消えたわけではありません。シロを形作っていた古い記憶の底に、別の怨気が残っています」
茶丸の耳が鋭く立った。
『次は、あれの正体を調べねばならぬ』
茶太郎はシロの前にしゃがんだ。
「今日は一緒に帰ろう。秘密基地を見てから、その先を決めればいいよ」
「……帰る場所、ぼくにもある?」
「これから探せばいい。みんなと一緒に」
シロはレオと並び、初めて自分の足で山道を下り始めた。
もう、誰かの帰りを待つためではない。
自分が向かう場所を、自分で選ぶために。




