第18話 「縣祭り当日:レオの初接客と、神々の夜会」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、レオにとって初めての祭りでした。
大勢の前で立派に振る舞うのではなく、まず一つの団子を手渡す。怖くなったら奥へ戻り、休んでからもう一度試す。小さな歩みですが、洞穴へ隠れていたレオにとっては大きな一歩です。
茶団子の売り上げの一部は宇治橋の修繕へ。料理から生まれた縁が、一度きりの奇跡ではなく、人の商いを通して町へ巡り始めました。
しかし、大吉山には黒い霧と、白い獣の影が残っています。
次回、茶太郎たちは再び山へ。レオから離れた恐れの行方と、新たな出会いを描きます。
――人の輪へ踏み出した鵺の子と、山に残る黒い揺れ――
縣祭の日を迎え、宇治の町は朝から活気に満ちていた。
通りには幟が立ち、祭りへ向かう人々の声が行き交う。遠くから太鼓の音が響き、初夏の風には茶や焼き物の香りが混じっていた。
宗次の店先にも台が並べられ、焼き茶団子の支度が進んでいる。
火と会計を担当するのは宗次とかん太。志乃は焼き上がった団子を竹の皮へ載せ、客へ渡せるよう整えていた。
「茶太郎たちは、奥で団子を丸める手伝いや」
宗次が念を押す。
「店先へ出るときも、必ず大人と一緒。疲れたり、怖くなったりしたら、すぐに休むこと」
「うん」
茶太郎の隣では、レオが通りの人波を見つめていた。
今日は白金色の髪を布で軽く覆い、獣の耳と細い尾も霊気の中へ隠している。それでも金色の瞳は、不安そうに揺れていた。
「人が、いっぱい……」
「奥で作るだけでもいいんだよ」
「でも、ぼく……一つ、渡してみたい」
「じゃあ、最初は一つだけにしよう」
茶太郎は自分の袖を示した。
「怖くなったら、ここを引いて。すぐ奥へ戻ろう」
「……うん」
◇
最初に店へ来たのは、近所に住む親子だった。
「茶団子を二つくださいな」
「ありがとうございます」
代金を受け取った宗次が、志乃へ声をかける。志乃は団子を載せた竹の皮を一つ、レオへ渡した。
レオは両手で受け取った。
足元の影が、わずかに黒く揺れる。
それでも深く息を吸うと、一歩ずつ客の前へ出た。
「……どうぞ」
「ありがとう」
母親は普通に受け取った。
隣にいた子どもが、竹の皮の上に並ぶ団子を見つめる。
「その団子、君が作ったん?」
「少しだけ。丸くした」
「きれいな丸やな」
子どもは団子を一つ頬張った。
「お茶の匂いがする。おいしい」
それだけ言うと、母親と一緒に祭りの通りへ歩いていった。
レオは、しばらくその背中を見送っていた。
「渡せた……」
「うん。ちゃんと渡せたね」
茶太郎が笑うと、レオの影から緊張が少し抜けた。
「もう一つ、やってみる」
その後もレオは、志乃の隣で何人かの客へ団子を渡した。
声が出ないときは、無理に話さない。
影が濃くなったら奥へ戻り、茶太郎と一緒に水を飲んで休む。
一度に大勢を相手にしたわけではない。それでもレオにとっては、洞穴の外へ踏み出した大切な一歩だった。
◇
昼過ぎになると、用意していた焼き茶団子は残りわずかになった。
「今日は、これで終わりや」
宗次は並んでいた客へ売り切れを伝え、店先の札を下ろした。
「追加は作らへんの?」
こたろが尋ねる。
「材料にも、手伝う者の体力にも限りがある。無理に増やして味や安全を損なったらあかん」
残った団子は、家族と手伝った者たちの分にした。
「売り上げの一部は、約束どおり宇治橋と川辺の修繕へ回そう」
宗次が帳面を閉じる。
「料理を売って終わりやない。町へ返してこその商いや」
レオは不思議そうに首を傾げた。
「団子が、橋になるの?」
「そのまま橋になるわけやないで」
かん太が笑った。
「団子を買うてもろうた銭で、板や縄を用意するんや」
「みんなが食べた物が、みんなの道を守るんだね」
茶太郎の言葉に、宗次は満足そうに頷いた。
「その道を使って、また人や荷が店へ来る。商いは、そうやって町の中を巡るんや」
レオは宇治橋の方角を見た。
「ぼくが丸めた団子も、少しだけ巡る?」
「ああ。お前が作った分もな」
レオの足元で、隠していた尾の形が嬉しそうに揺れた。
◇
午後、茶太郎とレオは宗次と志乃に付き添われ、縣神社へ向かった。
二人で流れの模様をつけた茶の蒸し羊羹を、神前へ納めるためである。
羊羹は店の売り物とは別に作り、清潔な白い布で包んでいた。
神社の者は包みを開き、表面の模様を確かめた。
「これは、水の流れかね」
「はい。僕とレオで描きました」
「二つの線が、途中から寄り添っておりますな」
茶太郎は、料理へ不思議な効能があるとは語らなかった。
宇治の水と茶へ感謝し、祭りへ集まる者が無事に帰れるよう願って作ったことだけを説明した。
「皆の願いとともに、神前へお供えしましょう」
蒸し羊羹が受け取られると、レオは茶太郎の袖を引いた。
「ぼくも、作ったって言っていい?」
「もちろん」
茶太郎は微笑んだ。
「でも、僕一人でも、レオ一人でも作れなかった。父ちゃんや母ちゃんたちにも手伝ってもらったからね」
「……うん。みんなで作った」
レオは神前へ向き直り、小さく頭を下げた。
◇
神社を出たところで、槇島城の使番・長逸と出会った。
今日は護衛を一人連れているだけで、大きな武家の一団ではない。
「茶太郎。店の団子が評判になっていると聞いた」
「もう売り切れちゃった」
「それは残念だ」
すると志乃が、手伝った者たちのために残していた団子を一つ差し出した。
「長逸さんには、宇治橋で働いていただきましたから」
「よいのですか?」
「これは売り物やなく、お礼です」
長逸は団子を受け取り、ゆっくり味わった。
「香ばしい。茶の苦みも強すぎず、食べやすい味だ」
特別な力を見抜いたわけでも、城へ納めるよう命じたわけでもない。
一つの料理として味わい、作った者へ礼を伝えた。
「レオも作ったのだと聞いた」
「……丸くした」
「よい仕事だ」
長逸は距離を縮めず、その場からレオへ軽く頭を下げた。
レオも茶太郎の後ろから、小さく頭を下げ返す。
人の姿をしたまま、レオの尾だけが一瞬現れ、嬉しそうに揺れた。
◇
夜が深まり、昼間の賑わいが少しずつ遠ざかっていく。
茶太郎たちは大人とともに祭りを見届けたあと、神社から離れた静かな川辺へ集まった。
月が水面へ映るころ、淡い光が一つずつ現れる。
橋姫。
宇治土公。
うじまる。
鯉姫。
そして茶丸。
宇治の土と水を見守る者たちが、祭りの輪から少し離れた場所で、小さな夜会を開いた。
「今年も、人の手で祭りが守られました」
橋姫が静かに告げる。
「料理だけが祭りを成り立たせたのではありません。神事を受け継いだ者、道を整えた者、店を開いた者、訪れた者。そのすべてがあってこそです」
「茶太郎たちの団子も、その一つじゃ」
宇治土公が頷いた。
レオは茶太郎の隣に座り、神々の姿を見つめていた。
「ぼくも……その中の一つ?」
「もちろんよ」
鯉姫が微笑む。
「でも、一人で全部を背負わなくていいの。あなたは今日、自分にできる分だけ人の輪へ加わった。それで十分なのよ」
レオの影が、嬉しそうに小さな尾を振った。
ところが、うじまるが大吉山の方角へひげを向ける。
「喜んでばかりもおられんようじゃ」
山の上に、黒い霧が細く立ち上っていた。
昼間からあった祭りの煙とは違う。
風に流されることなく、同じ場所で揺れている。
「レオの中に絡んでいた怨気が、すべて消えたわけではありません」
橋姫の表情が曇る。
「レオ自身の恐れと、人々が鵺へ向けた恐れ。その二つが分かれたとき、後者の一部が山へ残ったのでしょう」
「ぼくのせい……?」
レオの影が縮んだ。
『違う』
茶丸が静かに告げる。
『あれは、お前だけが生んだものではない。だが、お前と無関係でもない。我らがともに向き合うべきものだ』
茶太郎も、安易に「大丈夫」とは言わなかった。
「怖いね。でも、今夜すぐ山へ行く必要はないよ」
「まず大人たちへ知らせる」
かん太が続けた。
「夜の山へ入らず、明るくなってから道と霧を確かめる。前と同じように、準備してから行こう」
レオは大吉山の黒い霧を見つめた。
金色の瞳に恐れが浮かぶ。
それでも今度は、逃げるように目を閉じなかった。
「ぼくも行く」
「無理に行かなくてもいいんだよ」
「うん。でも、見たいんだ」
レオは震える声で答えた。
「何がぼくの怖さで、何が人からくっついた怖さなのか。今度は、ちゃんと見たい」
茶太郎はその手を握った。
「じゃあ、みんなで確かめよう」
祭りの夜風が、川面を渡っていく。
レオが得たのは、神々から授けられた強い力ではない。
怖くなったときに休むこと。
苦しくなる前に助けを求めること。
自分にできる分だけ、人の輪へ加わること。
そして、自分の中にある恐れから目を背けず、誰かと一緒に確かめること。
それが、レオにとって初めての祭りが結んだ、新しい縁だった。
月明かりの届かない大吉山では、黒い霧の中から、白い獣の影が静かに里を見下ろしていた。




