第18話 「縣祭り当日:レオの初接客と、神々の夜会」
――人の輪へ踏み出した鵺の子と、山に残る黒い揺れ――
縣祭の日を迎え、宇治の町は朝から活気に満ちていた。
通りには幟が立ち、祭りへ向かう人々の声が行き交う。遠くから太鼓の音が響き、初夏の風には茶や焼き物の香りが混じっていた。
宗次の店先にも台が並べられ、焼き茶団子の支度が進んでいる。
火と会計を担当するのは宗次とかん太。
志乃は団子を竹の皮へ載せ、客へ渡せるよう整えていた。
「茶太郎たちは、奥で団子を丸める手伝いや」
宗次が念を押す。
「店先へ出るときも、必ず大人と一緒。疲れたらすぐ休むこと」
「うん」
茶太郎の隣では、レオが通りの人波を見つめている。
今日は銀色の髪を布で軽く覆い、白金色の尾も姿の中へ隠していた。それでも左右で色の異なる瞳は、不安そうに揺れている。
「人が、いっぱい……」
「奥で作るだけでもいいんだよ」
「でも、ぼく……一つ、渡してみたい」
「じゃあ、最初は一つだけにしよう」
茶太郎はレオと約束した。
「怖くなったら、僕の袖を引いて。すぐ奥へ戻ろう」
「……うん」
◇
最初に店へ来たのは、近所に住む親子だった。
「茶団子を二つくださいな」
「ありがとうございます」
志乃が代金を受け取り、竹の皮へ載せた団子を一つ、レオへ渡した。
レオは両手で受け取る。
黒い影が足元でわずかに揺れたが、深く息を吸うと、ゆっくり客の前へ出た。
「……どうぞ」
「ありがとう」
母親は普通に受け取り、隣の子どもがレオを見上げた。
「その団子、君が作ったん?」
「少しだけ。丸くした」
「きれいな丸やな」
それだけ言うと、親子は祭りの通りへ歩いていった。
レオは、しばらくその背中を見送っていた。
「渡せた……」
「うん。ちゃんと渡せたね」
茶太郎が笑うと、レオの影から緊張が少し抜けた。
「もう一つ、やってみる」
その後もレオは、志乃の隣で数人の客へ団子を渡した。
声が出ないときは無理に話さない。
影が濃くなったら奥へ戻り、茶太郎と一緒に休む。
大勢を相手にしたわけではない。それでもレオにとっては、洞穴の外にできた新しい一歩だった。
◇
昼過ぎになると、焼き茶団子は用意した分のほとんどがなくなった。
「追加は作らへん」
宗次は並んでいた客へ、売り切れを伝えた。
「材料も子どもらの体力も、今日はここまでや」
無理に数を増やさず、残った団子は家族と手伝った者たちの分にする。
「売り上げの一部は、約束どおり宇治橋の修繕へ回そう」
宗次が帳面を閉じた。
「料理を売って終わりやない。町へ戻してこその商いや」
レオは、その言葉を不思議そうに聞いていた。
「団子が、橋になるの?」
「そのまま橋になるわけやないで」
かん太が笑う。
「団子を買うてもろうた銭で、板や縄を用意するんや」
「みんなが食べたものが、みんなの道を守るんだね」
茶太郎の言葉に、宗次は満足そうに頷いた。
◇
夕方、茶太郎とレオは両親に付き添われ、縣神社へ向かった。
二人で模様をつけた茶の蒸し羊羹を、神前へ納めるためである。
羊羹は売り物とは別に作り、白い布で包んでいた。
神社の神職は包みを開き、表面の模様を確かめた。
「これは、水の流れかね」
「僕とレオで描きました」
「二つの線が、途中から一つになっておりますな」
茶太郎は、奉納品について余計な効能を語らなかった。
宇治の水と茶へ感謝し、祭りへ集まる者の無事を願って作ったことだけを説明する。
「皆の願いとともに、神前へお供えしましょう」
神職が受け取ると、レオは茶太郎の袖を引いた。
「ぼくも、作ったって言っていい?」
「もちろん」
茶太郎は微笑んだ。
「でも、僕一人でも、レオ一人でも作れなかった。みんなで作ったんだよ」
「……うん。みんなで作った」
◇
神社を出たところで、槇島城の使番・長逸と出会った。
今日は護衛を一人連れているだけで、大きな武家の一団ではない。
「茶太郎殿。店の団子が評判になっていると聞いた」
「もう売り切れちゃった」
「それは残念だ」
すると志乃が、手伝った者の分として残していた団子を一つ差し出した。
「長逸さんには、宇治橋で働いていただきましたから」
「よいのですか?」
「これは売り物やなく、お礼です」
長逸は団子を受け取り、ゆっくり味わった。
「香ばしい。茶の苦みも強すぎず、食べやすい味だ」
特別な霊力を見抜いたり、城下への出店を即座に命じたりはしなかった。
ただ、一つの料理として味わい、作った者へ礼を伝える。
「レオ殿も作ったのだと聞いた」
「……丸くした」
「よい仕事だ」
長逸はそれ以上近づかず、レオへ軽く頭を下げた。
レオも茶太郎の後ろから、小さく頭を下げ返した。
◇
夜が深まり、通りの灯りが落とされていく。
昼間の賑わいとは違う暗さが、宇治の町を包んだ。
茶太郎たちは大人とともに祭りを見届けたあと、神社から少し離れた川辺へ集まった。
水面に月が映るころ、淡い光が一つずつ現れる。
橋姫。
宇治土公。
うじまる。
鯉姫。
そして茶丸。
宇治の土と水を守る者たちが、人には見えない輪を作った。
「今年も、人の手で祭りが守られました」
橋姫が静かに告げる。
「料理が祭りを成功させたのではありません。準備した者、道を守った者、神事を受け継いだ者。そのすべての力があってこそです」
「茶太郎たちの団子も、その中の一つじゃ」
宇治土公が頷く。
レオは茶太郎の隣に座り、神々の姿を見つめていた。
「ぼくも……一つ?」
「もちろんよ」
鯉姫が微笑む。
「でも、一人で全部を背負わなくていいの。あなたは今日、自分にできる分だけ人の輪へ加わった」
レオの影が、嬉しそうに小さな尾を振った。
ところが、うじまるが大吉山の方角へひげを向けた。
「喜んでばかりもおられんようじゃ」
山の上に、黒い霧が細く立ち上っている。
「レオの中に絡んでいた怨気が、すべて消えたわけではなかった」
橋姫の表情が曇る。
「レオ自身の恐れと、人々が鵺へ向けた恐れ。その二つが分かれたとき、後者の一部が山へ残ったのです」
「ぼくのせい……?」
レオの影が縮む。
「違う」
茶丸が静かに首を振った。
『だが、無関係でもない。我らが向き合うべきものだ』
茶太郎も、安易に「大丈夫」とは言わなかった。
「怖いね。でも、今夜すぐ山へ行く必要はないよ」
「まず大人たちへ知らせ、明るくなってから確かめる」
かん太が続ける。
「前みたいに、準備してから行こう」
レオは大吉山の黒い霧を見つめ、やがて頷いた。
「今度は、一人じゃない」
「うん。みんなで考えよう」
祭りの夜風が、川面を渡っていく。
レオが得たのは、神々に認められた強い力ではない。
怖くなったときに休むこと。
誰かへ助けを求めること。
自分にできる分だけ、人の輪へ加わること。
それが、レオにとって初めての祭りが結んだ、新しい縁だった。




