第20話 「道長の願いと第二の揺れ」
――宇治川に生まれた水の影・ナギ――
影犬のシロと出会った翌日。
茶太郎たちは、平等院の阿弥陀堂を訪れていた。
勝手に堂内へ入ることはできないため、事情を聞いた寺の僧が阿字池のほとりまで案内してくれた。
池の向こうには、翼を広げたような阿弥陀堂が立っている。夕日を受けた屋根の鳳凰が、水面に金色の影を落としていた。
「……きれい」
レオがつぶやく。
その隣では、シロがじっと水面を見つめていた。
「ここ……知ってる気がする」
「白丸の記憶?」
茶太郎が尋ねると、シロは首を振った。
「分からない。でも、たくさんの人が……帰りたいって願ってる」
橋姫は、阿字池を渡る風に目を細めた。
「この場所には、長い年月をかけて捧げられた祈りが残っています。ひとりの願いではありません」
かつて、この地には藤原道長の別業「宇治殿」があった。
道長の死後、宇治殿を受け継いだ子の頼通は、そこを寺に改めた。末法の世が始まると恐れられた時代、人々は阿弥陀仏のいる極楽浄土へ往生することを願ったという。
「道長が残した土地に、頼通が新しい祈りの場所を造ったんですね」
茶太郎が言うと、僧は静かにうなずいた。
「人の命も、富も、権勢も、いつかは失われます。その恐れは、身分の高い方々とて同じだったのでしょう」
阿字池に映った阿弥陀堂が、風で揺れる。
茶太郎の舌に、淡い味が触れた。
甘く、苦く、最後に消えていく味。
「……なくなるのが、怖い味」
その瞬間、屋根の鳳凰が夕日を弾いた。
金色の光は鳥の形となって池の上を渡り、宇治川の方角へ飛んでいく。
前日に見た、祈りの鳳凰だった。
鳳凰は言葉を発しなかった。
けれど、その光を追うように、阿字池の水面へ青黒い筋が走った。
うじまるが髭を震わせる。
「川底の揺れとつながった。昨日より濃くなってるぞ」
「シロを生んだ揺れとは、別のものですか?」
「似てはいるが、同じじゃない。あれは水に残った恐れだ」
橋姫の表情が曇った。
「流されれば、忘れられてしまう――そんな思いが集まっています」
シロが茶太郎の裾へ身を寄せる。
「ぼくと同じ?」
「寂しさは似ているかもしれない。でも、同じとは限らないよ」
茶太郎はシロを抱き上げた。
「だから、ちゃんと声を聞きに行こう」
◇
翌朝、茶太郎たちは宇治川へ向かった。
前日の教訓から、子どもだけで水辺へ近づくことはしない。かん太と伊平じいさんが同行し、橋姫とうじまるが水の状態を確かめる。
川岸には縄が張られ、茶太郎たちは十分に離れた場所から水面を見守った。
昨夜の雨はない。
それなのに、川の中央だけが渦を巻いている。
「青い糸が何本も絡まってる」
ゆかりが目を凝らした。
「流れたい糸と、ここに残りたい糸が引っ張り合ってる」
うじまるが水へ尾を入れる。
「無理に押さえれば、別の場所で噴き出す。まずは川の声を静めるぞ」
橋姫が袖を広げると、荒れていた水面に細い道が生まれた。
その中央から、青黒い影が浮かび上がる。
魚にも、子どもにも見える曖昧な姿だった。上流へ泳ごうとしては押し戻され、下流へ進んでは輪郭を失っている。
「……流される」
影がかすかな声を漏らした。
「流されたら……ぼくが、なくなる……」
レオが胸を押さえた。
「泣いてる……」
シロも小さく吠える。
「ここにいるよ。声、聞こえてるよ」
影が振り向いた。
「……きみたちは、消えないの?」
レオは少し考えてから答えた。
「消えないって、約束はできない。でも、怖くなったら……助けてって言う」
「助けて……?」
「うん。ぼくは、それを練習してる」
影がレオへ近づこうとした途端、渦が強くなった。
川岸へ水が押し寄せる。
「全員、下がれ!」
かん太の声で、茶太郎たちは縄の内側まで退いた。
茶丸が土を盛り上げ、岸が削られるのを防ぐ。うじまるは渦へ飛び込み、川の流れを二つに分けた。
「長くは保たんぞ!」
影は水の中でもがいていた。
「流れたい……でも、消えたくない!」
茶太郎はその言葉を聞き、亜空間収納から小さな包みを取り出した。
中身は、茶葉を練り込んだ米粉の団子だった。
水霊を従わせるための料理ではない。話を聞く間、荒れた霊気を少しだけ落ち着かせるために、宗次とかん太の手を借りて用意したものだ。
橋姫が団子を載せた器を水面へ送り出す。
湯気に混じった茶の香りが、渦の中へ広がった。
「……あたたかい」
影の動きが、わずかに緩む。
茶太郎は岸から呼びかけた。
「流れることと、消えることは同じじゃないよ」
「……ちがうの?」
「川の水は流れても、雨になって戻ってくる。料理に使われたり、田畑を潤したりもする。形が変わっても、つながりまでなくなるわけじゃない」
影は水面に浮かぶ団子を見つめた。
「ぼくも……流れていい?」
「それは君が決めることだよ」
レオが続ける。
「名前も、茶太郎に決めてもらうだけじゃなくて……自分で選べるよ」
「ぼくが……選ぶ?」
茶太郎はうなずいた。
「穏やかな水を“凪”っていうんだ。ナギという名前はどうかな。でも、嫌なら別の名前を一緒に探そう」
影はしばらく黙り、川の流れへ手を浸した。
「……ナギ」
青黒かった体に、淡い水色が混じっていく。
「ぼくは、止まった水じゃない。流れても……帰ってこられる水になりたい」
「じゃあ、ナギを選ぶ?」
「うん。ぼくは、ナギ」
渦は一度大きく広がり、やがて本来の流れへ溶けていった。
水面に残ったのは、尾びれの長い小魚の姿をした影精だった。
完全に澄んだわけではない。その尾の先には、まだ黒い色が残っている。
「……まだ、少し怖い」
ナギが言った。
「怖くなったら、ぼくたちを呼んで」
レオが答えると、シロも元気よく吠えた。
「ぼくも行く!」
うじまるが水面から顔を出す。
「ナギは、しばらくわしと川の流れを覚えよう。力の使い方を知らずに泳げば、また渦を起こすからな」
「うん。教えて」
橋姫は安堵しながらも、上流へ目を向けていた。
「これで宇治川が永久に安全になったわけではありません。ナギの奥にあった黒い糸が、上流へ続いています」
ゆかりもうなずく。
「昨日の山の糸とも、どこかでつながってる」
茶太郎は流れ始めた川を見つめた。
シロもナギも、誰かが残した願いだけで生まれたのではない。
忘れられたくない。
消えたくない。
それは、長い年月を生きる霊だけでなく、人の心にもある恐れだった。
「次は、この黒い糸がどこから来たのか調べよう」
すぐに追うのではない。
まず大人たちに知らせ、道と天候を確かめ、必要な準備を整える。
茶太郎たちは新しい仲間を迎えながら、宇治に残る次の揺れへ備えることにした。




