第179話 「近衛家の和歌会と、ひとつの膳」
――違うものを選びながら、同じ席を囲む料理――
翌朝。
茶太郎は、進士晴舎に伴われ、近衛家の屋敷を訪れた。
小さな和歌会のため、三人の客をもてなすことになったのだ。
一人は、魚や鳥を口にしない老僧。
一人は、固いものを噛めない老公家。
もう一人は、甘いものを控えている女房だった。
茶太郎は三人分の献立を書いた木札を並べる。
「お坊さまには精進料理。おじいさまには柔らかい料理。女房さまには甘くない料理……」
「それを客前で読み上げるつもりか?」
晴舎に問われ、茶太郎は首をかしげた。
「間違えないように……」
「客には、知られたくない事情もある」
食べられないものや、身体の衰えを大勢の前で示されれば、料理そのものが恥となることもある。
茶太郎は三枚の木札を見つめた。
相手を思って分けたはずなのに、分けることで傷つける場合もあるのだ。
「じゃあ……みんな、同じ料理に見えればいいのかな」
茶太郎は、昆布と干し椎茸だけで出汁を引いた。
文福茶釜の神水は、あくまで水を澄ませるために使う。味を作るのは、茶太郎の手と火加減だった。
柔らかく煮た蕪。
細かく崩した豆腐。
裏ごしした栗。
香りづけには、宇治の青柑子の皮を使わず、果汁だけを一滴。
だが、最初の試作を口にした晴舎は、すぐに箸を置いた。
「栗が強い。甘味を控える者には重いぞ」
「でも、砂糖は入れてないよ?」
「甘いかどうかは、砂糖の有無だけでは決まらぬ」
茶太郎は、はっとした。
食材そのものにも甘味がある。
知っているつもりで、献立の言葉だけを見ていたのだ。
栗を共通の椀から外し、別の小皿へ移す。
さらに、炒った胡麻、魚のほぐし身、青柑子の汁を、それぞれ小さな器に分けた。
基になる椀は、全員同じ。
客は好みに合わせ、自分で添えるものを選べる。
茶太郎は料理に名をつけた。
《水霊三景の蕪椀》。
三つの景色を持ちながら、根は同じひとつの椀だった。
ところが、配膳の直前に問題が起きた。
魚の小皿を扱った箸が、胡麻の器へ伸びかけたのだ。
「だめ!」
茶太郎が声を上げ、給仕の手が止まる。
同じ見た目の箸では、慌ただしい席で取り違える。
茶太郎は紐を持ってきて、箸の端へ結んだ。
魚には青。
胡麻には白。
青柑子には緑。
さらに目に頼れない者でも分かるよう、魚の箸には一つ、胡麻には二つ、青柑子には三つの小さな結び目を作った。
「色だけでは足りないと気づいたか」
晴舎がわずかに笑った。
「うん。暗いところでも、触れば分かるから」
和歌会が始まった。
近衛尚通が発句を詠み、客たちが静かに言葉を継いでいく。
同じ五七五七七の形に、それぞれ違う心が宿る。
茶太郎には、それが今日の椀と重なって見えた。
やがて、三人の前へ同じ蕪椀が置かれた。
老僧は胡麻を選んだ。
老公家は何も加えず、柔らかな蕪と豆腐をゆっくり口へ運んだ。
女房は青柑子の汁を一滴落とし、香りを楽しんだ。
誰が何を避けているのか、周囲には分からない。
ただ三人が、同じ椀を囲んでいる。
「同じ膳とは、同じものを強いることではないのだな」
尚通が言った。
「同じところへ帰れるよう、余白を残すことか」
茶太郎は、空になった三つの椀を見比べた。
加えたものは違う。
それでも、椀の底には同じ昆布と椎茸の香りが残っている。
「和歌と似てるね。形は同じでも、その人の言葉を入れられる」
老僧が静かに目を細めた。
「料理人が語りすぎぬのも、もてなしであろう」
茶太郎は深くうなずいた。
食べられない理由を問わない。
選んだものを言いふらさない。
違いを隠すのではなく、違ったまま同じ席にいられるようにする。
それもまた、料理人の仕事なのだ。
和歌会が終わる頃、尚通は一枚の懐紙を茶太郎へ渡した。
そこには、谷宗牧から届いた連歌の下句と、若い武将の名が記されていた。
――三好長慶。
「この若者もまた、異なる家々をひとつの席へ着かせようとしている」
尚通は庭へ視線を向けた。
「ただし、人の心は料理ほど素直には混ざらぬ。近く、そなたの味を借りたいそうだ」
茶太郎は懐紙を握りしめた。
台所で学んだ“ひとつの膳”が、今度は争う者たちの前へ運ばれようとしていた。




