第178話 「十粒の豆と、母のための小さな膳」
伏見から戻った茶太郎は、幕府台所の修行へ復帰した。
黒三爪の調べは、三好長逸、弥七、日置雪、日野小夜へ託してある。
気にはなった。
けれど、何でも自分で追えばよいわけではない。
今の茶太郎が向き合う相手は、十粒の大豆だった。
「始めよ」
進士晴舎が告げる。
茶太郎は坪内石斎から預かった真魚箸を握った。
一粒目。
挟んで、持ち上げ、別の皿へ置く。
二粒目。
三粒目。
以前のように急いで追わず、豆が滑れば一度箸を離す。
八粒目で指が震えた。
九粒目は、皿の縁へ当たったが落ちなかった。
最後の一粒を置く。
「……十粒」
茶太郎は息を吐いた。
晴舎が皿を確かめる。
「ようやく、入口へ立ったな」
「包丁を使える?」
「まだだ」
「ええっ」
「箸で豆を移せたことと、刃を安全に扱えることは別の話だ」
褒めてもらえると思っていた茶太郎は、肩を落とした。
晴舎は何も慰めず、新しい仕事を命じた。
「奥向きから戻った膳を調べよ。何が残されたか、全て記せ」
返された膳には、焼き魚、蕪の煮物、汁、飯がほとんど手つかずで残っていた。
「誰の膳?」
「御台所だ」
慶寿院は、偽文への対応、近衛家との確認、菊童丸の世話に追われている。
朝餉も昼餉も、運ばれたまま冷めて戻る日が続いていた。
「お口に合わなかったのでしょうか」
料理人が不安そうに言う。
茶太郎は膳を見つめた。
魚も煮物も、丁寧に作られている。
味が悪いわけではない。
「多すぎるんじゃないかな」
「御台所の膳を減らすと申すか」
「食べる時間がないのに、こんなに並んでたら……見るだけでお腹いっぱいになるよ」
晴舎は、すぐに賛成しなかった。
「では、何を出す」
茶太郎は御台所の部屋の前まで行き、女房へ様子を尋ねた。
朝は菊童丸が泣き、昼は近衛家から使者が来た。
食べようとすると、別の用事が入る。
ようやく箸を持てる頃には、料理は冷めているという。
「温かいものを一つだけ。途中で止めても、また食べられるものがいい」
用意したのは、柔らかく炊いた麦飯。
そこへ細かくほぐした蕪と、十分に火を通した鶏卵を加える。
味つけは薄い味噌。
冷めても塩辛く感じないよう、濃くしない。
量は、普段の膳の三分の一。
《水霊母休の麦雑炊》
だが、最初の一椀は失敗した。
御台所へ運ばれる途中で菊童丸が泣き出し、女房が膳を置いたまま抱き上げに向かった。
戻ってきた時には、卵が汁を吸い、雑炊は固くなっている。
「また冷めちゃった……」
茶太郎は、料理だけを変えても足りないことに気づいた。
食べる時間そのものがなければ、何度作り直しても同じである。
茶太郎は義晴の部屋へ向かった。
「義晴様。お願いがあります」
「何だ」
「菊童丸を、少しだけ抱いていてください」
周囲の家臣が顔を強張らせた。
将軍へ、子守を頼んだのである。
「御台所がご飯を食べ終わるまででいいです」
義晴は茶太郎と、腕の中で眠りかけている菊童丸を交互に見た。
以前なら、乳母へ任せたかもしれない。
だが義晴は黙って両腕を差し出した。
慶寿院も驚いている。
「泣かれたら、どうすればよい」
「揺らしすぎないで、声を聞かせてあげてください」
義晴はぎこちなく菊童丸を抱いた。
小さな手が、父の袖を掴む。
「……余の顔を見ておる」
「父上だと、分かるのでしょう」
慶寿院の表情が、初めて緩んだ。
その間に、二椀目の麦雑炊が届く。
器は温めてある。
蓋を開けると、柔らかな湯気が立った。
慶寿院は一口食べた。
すぐには二口目へ進まない。
茶太郎は何も言わず、一歩下がった。
食べて。
残さないで。
身体のために。
そう急かされる言葉さえ、疲れている者には重くなる。
慶寿院は少し休み、もう一口食べた。
やがて、小さな椀を空にした。
「これだけで、よいのですか」
「足りなかったら、あとで小さいお団子を出します。最初から全部食べなくてもいいです」
「菊童丸へ白粥を出した時と同じですね」
慶寿院は微笑んだ。
「子どもには待つことができても、自分には待てませんでした」
義晴が菊童丸を抱いたまま言う。
「これから朝の一刻だけは、余が抱こう」
「政務がおありでしょう」
「我が子を抱くことも、余の務めであろう」
慶寿院は礼を言わなかった。
ただ、空になった椀を夫から見える場所へ置いた。
義晴も何も言わず、眠った菊童丸の顔を見つめている。
言葉にしなくても、三人の間へ新しい時間が生まれていた。
台所へ戻ると、晴舎が小さな木箱を茶太郎の前へ置いた。
中には、刃を落とした短い練習包丁が入っている。
「本物の刃を持つ前に、これで柔らかな蕪を切れ。必ず大人が横につく」
茶太郎の顔が輝く。
「包丁の稽古?」
「豆を十粒移したからではない」
晴舎は、戻ってきた空の椀を示した。
「料理ではなく、食べる者の時間を見ることを覚えたからだ」
茶太郎は練習包丁を両手で受け取った。
初めて任される刃物は、力の証ではない。
誰かを傷つけず、誰かが食べられる形へ整える責任の始まりだった。
その日の夕方。
近衛尚通から幕府台所へ、新たな依頼が届いた。
偽文騒動を鎮めた礼として、小さな和歌の会を開きたいという。
ただし客の中には、肉を口にしない僧、固いものを噛めない老人、甘いものを控える者がいる。
同じ席へ集まりながら、食べられるものが違う人々。
茶太郎の次の修行は、一つの膳を皆へ押しつけず、それぞれが同じ時を楽しめる料理を考えることになった。




