第177話 「折れた一本と、交換できる樫の歯」
伏見の水車が止まった翌朝。
伊平じいさんは、折れた歯車の歯を手に取り、光へ透かすように眺めていた。
「樫やな。よう乾いとるが、根元から見事に裂けた」
水車小屋では、米搗きも粉挽きも止まっている。
麹用の米を整えられなければ、水輪甘酒の仕込みにも影響が出る。
水車番は、大きな歯車を見上げて溜息をついた。
「歯一本を替えるだけやのに、軸を抜いて輪を外さなあかん。元へ戻すまで十日はかかる」
茶太郎は、輪と一体になっている歯を見つめた。
「一本ずつ、抜けるようにできないの?」
伊平じいさんは笑った。
「できるで。寺の古い水車や唐臼には、歯だけを打ち替える仕組みもある。茶太郎が初めて思いついたものやない」
「そうなの?」
「昔の職人も、同じところで困ったんやろうな」
大切なのは、誰が最初に考えたかではない。
伏見の水車へ合わせ、実際に動く形へ直せるかだった。
伊平じいさんは、甚八と水車大工を呼んだ。
茶太郎は刃物にも回転部にも近づかず、離れた机で小さな木の模型を回す役目を任された。
最初の試作では、四角い穴へ樫の歯を差し、後ろから木槌で打ち込んだ。
「回すよ」
茶太郎が模型の輪を回す。
一周目は噛み合った。
二周目で、一本の歯が少し浮いた。
三周目――。
歯が抜け、こたろの前へ転がる。
「飛んできた〜!」
こたろは大喜びだが、実物なら大事故である。
「差しただけでは、振動で抜けるな」
甚八が歯の根元へ小さな楔を打った。
二度目の試作。
歯は抜けなくなった。
ところが、濡れた布を当てて一晩置くと、木が水分を吸って膨らみ、抜こうとしても動かない。
「水車は、いつも水のそばにあるもんね」
茶太郎が言う。
交換できるはずの歯が、膨らんで固まれば意味がない。
三度目。
伊平じいさんは歯の根元を少し細く削り、奥へ行くほど締まる形にした。
輪の横から短い木栓を差し、歯が前へ抜けないよう留める。
木栓を外せば、傷んだ歯だけを後ろへ叩き出せる。
白虎が模型を見つめた。
「力は歯の先ではなく、根元の角へ集まっている」
白虎は歯を削れない。
ただ、回した時に力が集まる場所を示す。
甚八たちは、その角をわずかに丸め、急に割れないよう整えた。
青龍は水路を確かめた。
「水門を全て開けば、修繕前より流れが強すぎる。最初は半分で試せ」
霊獣たちが教えるのは、危険の位置と水の流れだけ。
寸法を測り、木を削り、歯を据えるのは職人の仕事だった。
新しい歯車が完成するまで、二日かかった。
古い輪の傷んだ部分を補強し、十二本の歯を交換式へ改める。
全てを一度に作り替えず、最も負担の大きい場所だけで試すことにした。
予備の樫歯も三本用意する。
《水輪替歯の樫歯車》
水車番が水門を四分の一だけ開いた。
羽根へ水が当たり、輪がゆっくりと動き出す。
ぎしり。
ぎしり。
新しい歯が相手の歯車を押し、米搗きの杵が上下する。
一刻後、木栓と歯の緩みを確かめる。
異常はない。
次に水門を半分まで開く。
回転は少し速くなったが、歯は抜けなかった。
水車番は白い米粉を手に取り、ようやく笑った。
「動いた……十日止まるはずが、二日で戻った」
「速さは前と同じや」
伊平じいさんが釘を刺す。
「力が十倍になったわけでもない。壊れんわけでもない。ただ、次に一本折れても、水車全部を外さんでよくなった」
茶太郎はその言葉を帳面へ書いた。
――強くしたのではない。直しやすくした。
日野小夜は、水車の使用料から少しずつ銭を残す欄を作った。
「予備の歯を使ったら、新しい一本を買い足します」
「壊れてから銭を集めるんじゃないの?」
「壊れる前から、直すための銭を残すのです」
予備の部品。
修繕のための積立。
歯を替えた日と、傷み具合の記録。
道具を長く使うためには、職人の腕だけでなく、止まる前に備える仕組みが要る。
再び挽かれた米粉で、志乃は小さな団子を作った。
水輪甘酒を煮詰めた餡を薄く絡める。
《水輪再転の米粉団子》
最初の一皿は、水車番と大工たちへ。
二皿目は、木屑を片づけた子どもたちへ配られた。
蒼鷺の蒼は、約束どおり鮎の塩焼きを受け取っている。
「団子より鮎やな」
「手伝ったの、偵察の時だけでしょ」
「空から応援してた」
蒼の言い分に、久しぶりの笑いが水車小屋へ広がった。
夕方、三好長逸が伏見へ到着した。
三通の偽文は、幕府、三好、細川方で共有されたという。
「誰も軍を動かさなかった。黒三爪の狙いは外れた」
「捕まえられる?」
茶太郎が尋ねる。
「ここから先は我らの仕事だ」
長逸は小夜の集めた船賃札を受け取った。
「宿代、紙代、船賃、麹の前銭。どれほど姿を隠しても、これだけの銭を動かせば跡が残る」
弥七、日置雪、影猫衆、水輪勘定方。
さらに幕府と三好の調べ役が、銭の流れを追うことになった。
茶太郎が危険な相手を追い続ける必要はない。
「茶太郎殿は、幕府台所の修行へ戻られよ」
長逸は笑った。
「次に偽文が届いても、腹を空かせたまま話し合うのは御免だからな」
茶太郎は少し迷ったが、頷いた。
何でも自分で解決することが、成長ではない。
託せる相手を信じ、自分が学ぶべき場所へ戻ることもまた、一歩だった。
その夜、復旧した水車は一定の音を響かせていた。
折れた一本の歯は、壊れない道具を生んだのではない。
壊れても、皆で直しながら使い続けられる道具を生んだのである。




