第175話 「慶寿院に届いた偽文と、重なる紙の端」
近衛家の紙問屋を調べる前に、慶寿院のもとへ一通の書状が届いた。
差出人は、父・近衛尚通。
封には近衛家の印があり、紙も実家で使われる上質な鳥の子紙だった。
慶寿院が書状を開く。
読み進めるうちに、その表情が強張った。
――足利義晴には、菊童丸を守る力がない。
――争いが再び起こる前に、子を近衛家へ移すべし。
――三好との接近を止めぬなら、近衛家は幕府への助力を考え直す。
父から娘への助言ではない。
将軍である夫を見限れと迫る内容だった。
「父上が、このようなことを……」
女房たちは口々に勧めた。
「義晴様へは、まだお見せにならぬ方が」
「まず近衛家と話を合わせるべきです」
「御夫婦の間へ余計な疑いが生じます」
慶寿院は書状を畳んだ。
少し前の彼女なら、菊童丸を守るため、夫へ隠したかもしれない。
だが黒三爪は、隠された言葉の隙間へ入り込む。
「いいえ。義晴様へお見せします」
慶寿院は自ら書状を持ち、義晴の部屋へ向かった。
義晴は読み終えると、怒りを露わにした。
「尚通殿は、余が子を守れぬと申すか」
「まだ、父の言葉と決まったわけではありません」
「印も紙も近衛家のものではないか」
「だからこそ、原本を並べて確かめたいのです」
義晴は反論しかけたが、慶寿院の目を見て言葉を止めた。
六角堂で幕府と三好の証文を並べた時も、一枚だけを信じれば争いになっていた。
「分かった。近衛家へ使いを出そう」
ところが、その日のうちに近衛尚通から別の書状が届いた。
そこには、全く違うことが記されている。
――慶寿院から、菊童丸を近衛家へ移したいとの文が届いた。
――義晴が子を顧みず、政争へ利用していると訴えている。
――夫婦の間に何があったのか、説明を求める。
「私は、そのような書状を出しておりません」
慶寿院の声が震えた。
黒三爪は父から娘への手紙と、娘から父への手紙を同時に偽造していた。
どちらか一方でも信じれば、義晴、慶寿院、近衛家の間に深い溝が生まれる。
二通の偽文は、水輪勘定方へ運び込まれた。
日野小夜が筆跡と印を調べる。
「文字はよく似せています。しかし、尚通様の筆ではありません」
「印は本物なの?」
茶太郎が尋ねる。
「近衛家の正式な印と寸法が同じです。印影だけを写し、別の印を彫ったのでしょう」
墨屋宗白は紙を光へ透かした。
どちらにも、近衛家が用いる透かしが入っている。
紙だけを見れば、本物としか思えない。
茶太郎は二通の書状を前に座った。
料理なら、材料がどこから来て、どの道を通ったかを見る。
紙にも、作られてから届くまでの道があるはずだ。
「二枚とも、同じ大きさ?」
「ほぼ同じです」
「こっちの端が、少しぎざぎざしてる」
一通の右端と、もう一通の左端。
切り口に細かな凹凸がある。
小夜が二枚を横へ並べた。
凹凸が、ぴたりと重なる。
「一枚の大きな紙を、二つに裂いたものです」
二通は別々の場所で書かれたのではない。
同じ者が同じ紙を二つに分け、父と娘の双方へ送ったのだ。
「言葉は反対なのに、紙はもともと一つだったんだね」
その一言に、義晴の怒りが静まった。
慶寿院も、書状を握っていた手を緩める。
もし二人が手紙を隠し、別々に動いていれば、この重なりには気づけなかった。
近衛家へ出入りする紙問屋が、水輪勘定方へ呼ばれた。
名は紙屋宗信。
六十近い、痩せた男だった。
宗信は二枚の紙を見るなり、床へ手をついた。
「確かに、わしの店が漉かせた紙でございます」
「黒三爪へ売ったのですか」
小夜が尋ねる。
「紙を売ったのは事実。しかし、誰が偽文へ使うかまでは……」
「近衛家の透かし入りです。誰にでも売れるものではないでしょう」
宗信は唇を噛んだ。
通常の三倍の値を積まれ、破損した紙として帳面へ記し、十枚を横流ししたという。
脅されたのではない。
借金があったわけでもない。
ただ、焼けた店を早く建て直したかった。
「一度だけなら、誰も困らぬと思いました」
慶寿院は静かに言った。
「その一度で、父と夫と我が子が引き裂かれるところでした」
宗信は返す言葉を失った。
紙を売っただけ。
印を彫っただけ。
手紙を運んだだけ。
黒三爪は一人一人へ仕事の一部しか見せず、誰にも罪の全体を知らせない。
だから皆、「自分のしたことは小さい」と思えるのだ。
宗信の店から、残る透かし紙と売買帳が押収された。
処罰は近衛家と町組の立ち会いで決められる。
ただし紙漉きの職人たちまで連座させず、宗信本人が横流しで得た銭を返すことになった。
「印のある紙は、売った枚数だけでは足りません」
小夜は新しい帳面を作った。
漉いた枚数。
正式に使った枚数。
書き損じた枚数。
処分した枚数。
全てが合わなければ、次の注文を受けられない。
けれど慶寿院は、帳面だけでは足りないと言った。
「私も、言葉を隠さないようにします」
彼女は義晴の前へ一枚の白紙を置いた。
「菊童丸のこと、近衛家のこと、三好とのこと。疑いがあれば、この紙へ書く前に、まず互いへ尋ねましょう」
義晴は何も答えず、その白紙を半分に折った。
一方を慶寿院へ返し、もう一方を自分の文箱へ入れる。
謝罪も誓約もない。
だが、同じ一枚を二人で持つという所作が、夫婦の間に新しい約束を作った。
近衛尚通にも二通の偽文が示され、父娘の誤解は解けた。
その日の夕方。
紙屋宗信の売買帳から、透かし紙を買った者の支払い札が見つかった。
札に名はない。
あるのは、伏見の船宿を示す印だけだった。
さらに茶丸が帳場の床下から、短い鳥の羽を見つける。
墨で半分を黒く染めた、灰色の羽。
弥七は羽を見て目を細めた。
「黒三爪の文運びや。次は伏見で、誰かに偽文を届ける気やろう」
紙から漏れた秘密は、今度は船へ乗ろうとしていた。
そして伏見は、宇治、京、堺を結ぶ水運の喉元だった。




