第174話 「二引両の偽印と、灰捨て場から漏れた秘密」
捕らえた男の紙に残されていた、細い二引両。
それが幕府の紋を模したものだと分かると、南禅寺門前の御所は騒然となった。
「内通者がおる!」
「台所の者を全員調べよ!」
「麹の荷運びを知っていた者を捕らえるのだ!」
奉公衆は門を閉ざし、台所の下働きまで一室へ集めた。
進士晴舎が止めても、疑いは広がっていく。
互いに目を合わせず、昨日まで一緒に働いていた者まで距離を取っていた。
「黒三爪は、ここまで狙ってたのかな」
茶太郎が小声で尋ねる。
日野小夜は、偽の二引両を見つめた。
「その可能性があります。印が露骨すぎるのです」
本当に幕府内部の者が関わっているなら、自ら幕府の紋を残すだろうか。
偽印を見つけさせ、疑心を生むこと自体が罠かもしれない。
だが、奥向きの帳面と同じ数字の付け方が、外へ漏れていることも事実だった。
「疑わしい者を全員罰するしかあるまい」
役人が言う。
その声へ、御台所が静かに答えた。
「証拠のない処罰は認めません」
「しかし、菊童丸様のお食事にまで危険が及びます」
「だからこそです。恐れだけで人を追えば、台所そのものが壊れます」
足利義晴も奥から現れた。
家臣たちは、すぐに内通者の処罰を求める。
義晴は紙を見たあと、慶寿院へ視線を向けた。
「そなたは、どう見る」
「黒三爪が望んでいるのは、私たちが互いを疑うことです。調べる者と、日々の食事を作る者を分けましょう。台所は止めません」
義晴はしばらく黙っていた。
「分かった。捕縛は証が出てからだ」
夫が妻の意見を聞き、公の場で採用する。
それだけの所作が、怯えていた下働きたちの空気を少し和らげた。
小夜は三枚の偽の予定表を用意した。
一枚には、米が東門から届くと記す。
一枚には西門。
もう一枚には川沿いの裏門。
それぞれを、別の役目を持つ者だけへ見せる。
「黒三爪がどの門へ現れるかで、漏れた場所を絞ります」
三日間待った。
だが、どの門にも黒三爪は現れなかった。
「内通者はいないの?」
「そうとも限りません。偽の予定だと見破られた可能性もあります」
調べは振り出しへ戻った。
茶太郎は台所で、再開した水輪甘酒の仕込みを手伝った。
量を揃えた米。
新しく育てた麹。
沸かして冷ました水。
三日休んだあとの一杯は、以前より少し甘く感じられた。
だが、茶太郎は落ち着かなかった。
甘酒を運ぶ道。
米が届く道。
帳面が書かれ、保管されるまでの道。
進士晴舎から教わった“味の通り道”を、頭の中でたどる。
そのとき、下働きの少年が書き損じた紙を丸め、灰籠へ捨てた。
紙には、翌日の米の量が途中まで書かれている。
「その紙、どうするの?」
「灰捨て場へ運びます。火付けや厠紙に使う者が持っていくこともあります」
茶太郎は灰籠をのぞいた。
荷運びの時刻。
買った米の量。
使う門の名。
書き損じとはいえ、つなぎ合わせれば台所の動きが分かる紙が何枚もある。
「帳面じゃなくて、捨てた紙から漏れてたんだ」
小夜が灰籠の紙を一枚ずつ確認した。
外で見つかった偽予定表と同じ筆跡の数字もある。
書いた本人が渡したのではない。
書き損じとして捨てたものが、灰捨て場から持ち出されていた。
白灯と虎吉が、灰を運ぶ荷車を追った。
荷車は下京の紙屑買いへ向かう。
古紙を集めて売ること自体は、悪い商いではない。
問題は、その途中で帳面の断片だけを選び、銭を払って買う男がいたことだった。
弥七と日置雪が張り込む。
夕刻、顔を布で隠した男が現れ、灰まみれの紙から荷運びの記録だけを抜き取った。
「今や!」
弥七が動く。
男は紙束を投げ、路地へ逃げ込んだ。
影猫衆が屋根から進路を示したが、男は民家の塀を越え、姿を消した。
捕らえることはできなかった。
それでも紙束は残った。
中には幕府台所だけでなく、三好家の兵糧、下京町組の井戸修繕、麹座の仕込み日まで記されている。
「内通者が一人いたのではありません」
小夜が言った。
「皆が捨てた小さな秘密を、黒三爪が集めて一つの大きな情報へ変えていたのです」
二引両の偽印は、幕府内部へ疑いを向けさせるための餌だった。
もし下働きを一斉に処罰していれば、台所は止まり、黒三爪の狙いどおりになっていただろう。
翌日から、書き損じた紙の扱いが変わった。
字のある紙を、そのまま灰籠へ捨てない。
再利用できるものは、墨で文字を潰して帳面の下書きへ回す。
秘密を含むものは、水へ浸し、繊維がほどけるまで潰す。
子どもたちは柔らかくなった紙を棒で混ぜ、大人が簀で漉き直した。
乾かした紙は、厚く不揃いだった。
高価な書状には使えない。
だが、水輪甘酒の数札や、白札の裏紙には十分だった。
「秘密だった紙が、また白くなった」
レオが、乾いた紙を光へ透かす。
「……もう、よめない……」
茶太郎は、その紙へ新しい水輪印を押した。
捨てるはずだった情報が、次の信用を守る札へ生まれ変わった。
小夜は六角堂の近くに、小さな帳場を置くことを提案した。
幕府、三好、町組の記録を一か所へ集めるのではない。
それぞれが持つ帳面の数と取引だけを照合し、矛盾があれば知らせる場所である。
「力を集めすぎれば、奪われた時の害も大きくなります」
「じゃあ、全部持たないの?」
「ええ。互いの帳面が合っているかだけを見ます」
その小さな帳場は、《水輪勘定方》と呼ばれることになった。
日野小夜が監め役。
墨屋宗白が町組との調整。
茶太郎は、食べる者と働く者の取り分が消えていないかを見る。
まだ三人だけの、狭い帳場だった。
だが、のちに京、堺、宇治の商いを結ぶ《水輪勘定所》の最初の一室となる。
その夜、小夜は拾い集めた紙束の中から、一枚の端紙を見つけた。
そこには、近衛家へ出入りする紙問屋の名と、御台所の女房が使う裏門が記されている。
黒三爪は幕府の台所だけでなく、慶寿院の実家である近衛家へも手を伸ばしていた。
そして紙問屋の名の横には、七宝信用帳から切り取られた頁を示す印が付いていた。




