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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第三章 ~五歳の茶太郎、伏見へ――南へ広がる水輪~
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第173話 「消えた米麹と、売らない二日間」

 大山崎から京へ戻った茶太郎たちを待っていたのは、空になった麹箱だった。


「一粒も残ってへん」


 志乃しのが箱の底を確かめる。

 下京の麹問屋を回っても、返事は同じだった。


「昨日、まとめて買われました」


「次の仕込み分まで前銭を受け取っております」


「水輪甘酒へ回せる分はありません」


 黒三爪は、店から麹を盗んだのではない。

 相場より高い銭を払い、正しい商いの形で買い占めていた。


 水輪甘酒の売り場には、朝から人が並んでいる。


「今日はまだか?」


「昨日も買えんかったぞ」


 五枚の白札を持つ子どもたちは、空の甕を見つめていた。

 売る品がなければ、手間賃も、翌日の椀へ回す銭も生まれない。


 茶太郎は、甕の底に残った甘酒へ白湯を加えようとした。


「薄水輪なら……もう少し増やせる」


 だが、柄杓を持つ手を止めた。

 薄水輪は、最初から決めた量の白湯で調えた商品だ。

 売るためにさらに薄めれば、昨日までの薄水輪とは別物になる。


「やめる」


 茶太郎は柄杓を置いた。


「今日は売らない」


 集まった客から、不満の声が上がった。


「せっかく待ったのに!」


「偽物が出た次は品切れか!」


 茶太郎は逃げずに、売り場の前へ立った。


「同じものを作れない日は、水輪甘酒として売りません。麹が届くまで休みます」


 五歳の声は、人混みの中では小さい。

 京鈴きょうすずが結び簾から、その日の組紐を外した。


「今日は水輪印を出さん! 並んでも売らへんで!」


 日野小夜ひの・さよは帳面を開いた。


 前の七日間で残した銭がある。

 水輪甘酒を二日売らなくても、白札の子どもたちへ最低限の食事を出し、働いた者へ約束済みの手間賃を払える。


「残しておいた銭は、このような日のためにあります」


「でも、三日目は?」


 茶太郎が尋ねる。


「それまでに麹を確保できなければ、仕組みを縮めます。借りてまで同じ規模を保ってはなりません」


 御台所にも、販売停止の知らせが届いた。


 奥向きの役人は、将軍家の分だけ麹を取り上げることを提案した。

 しかし御台所は認めなかった。


「水輪甘酒を支えるために、町から麹を奪えば本末転倒です。菊童丸きくどうまるの分も止めてください」


 将軍家だけが飲み続ければ、「町の分を幕府が奪った」という噂を黒三爪に与える。

 御台所は水輪甘酒の代わりに白粥を用意させ、同じ二日間を待つことにした。


 茶太郎たちは麹座の寄合へ向かった。

 座の年寄たちは、困った顔で証文を並べる。


「買い占めと申されても、相手は値を払い、我らは売った。証文を破るわけにはまいりません」


「高い値で売れたのに、どうして困ってるの?」


 茶太郎の問いに、一人の麹師が答えた。


「今ある麹だけではない。次に作る分まで売ってしもうたからじゃ」


 前銭は、借金の返済や壊れた麹室の修繕へ使われている。

 今さら返そうにも、手元に銭は残っていない。

 さらに証文には、決められた量を渡せなければ、麹室と道具を買い手へ譲ると書かれていた。


「麹を作る人ごと、手に入れるつもりなんだ」


 茶太郎が呟く。


 黒三爪の狙いは、一度の品切れではない。

 発酵を支える職人と場所を、借りと証文で縛ることだった。

 小夜は証文を調べた。


「高値に見えますが、渡せなかった場合の代償が大きすぎます。それを口頭で説明した者は?」


 麹師たちは顔を見合わせた。

 誰も、麹室まで失う可能性を理解していなかった。

 文字を読める者にも、難しい言い回しだったという。


 それでも、小夜は勝手に契約を消さなかった。


「欺く意図があったことを証明します。その間、これ以上の引き渡しを止めるよう、幕府と町組へ申し立てます」


「止めても、麹は増えんぞ」


 年寄が言った。


「残っているものは、本当に一つもないの?」


 茶太郎が尋ねる。

 長い沈黙のあと、最年長の麹師が奥の室へ案内した。

 棚の上に、小さな木箱が置かれている。

 中には、黄色がかった粉をまとった乾燥米が入っていた。


種麹たねこうじじゃ」


 次の米へ麹を育てるため、代々残してきたもの。

 飲むための甘酒へ使えば、わずかな量しか作れない。

 だが種として使えば、数日後には新しい米麹を増やせる。


「これまで売れと言われた」


「売ったの?」


「売らなんだ。これを渡せば、わしらは麹師でなくなる」


 その夜にも、買い手は種麹を受け取りに来るという。

 弥七やしち日置雪へき・ゆきは、相手を捕らえる準備を始めた。


 だが茶太郎は木箱を抱えなかった。


「宇治へ隠したら安全かな」


「一時はな」


 宗次そうじが答える。


「けど、麹師が自分の種を守れんようになったら、また奪われる」


 そこで種麹は、麹座、町組、幕府の三者立ち会いで封じられた。

 一人では開けられないよう、箱へ三本の異なる組紐を結ぶ。

 同時に、仕込みに必要な米と薪を水輪甘酒の積立から正規に買い、麹師へ渡すことが決まった。


 施しではない。

 完成した麹を、決めた値で水輪甘酒側が買う契約だった。


 白札の子どもたちは、麹室の前で木盆を洗い、日なたへ並べた。

 壁や床を清めるのは大人たち。

 米を蒸し、温度を確かめ、種麹を扱うのは麹師だけ。


 茶太郎の霊性は、室の中で熱や湿りの偏りを“味”として感じ取れた。

 だが麹を無から増やすことはできない。


「奥が熱すぎる。入口の下は冷たい味がする」


 茶太郎の感覚を聞き、職人が米盆の位置を入れ替える。

 霊性は答えではなく、職人の手を助ける目印となった。


 販売停止から二日目の夜。


 種を受け取りに来た男は、弥七たちの姿を見ると逃げ出した。

 影猫衆が屋根から進路を知らせ、日置雪が人のいない路地で取り押さえる。

 男の懐から、麹師たちの家族構成と借金を記した紙が見つかった。


 紙の上部は切り取られていたが、七宝信用帳の欠けた頁と紙質が一致した。

 黒三爪が信用帳を使っている証拠だった。


 翌朝。


 麹室の戸を開けると、蒸した米に淡い黄金色の麹が広がっていた。

 麹師は一粒を割り、香りを確かめる。


「まだ甘酒には早い。あと一日待つ」


 茶太郎は頷いた。


 売り場を三日休むことになる。

 それでも、未完成の麹を使おうとは言わなかった。


 売らない二日間は三日間へ延びた。

 だがその三日で、水輪甘酒は品物だけでなく、次の品物を生み出す“種”を守ったのである。


 そして捕らえた男の紙には、もう一つの印が残されていた。


 黒三爪の爪痕を囲む、細い二引両。


 幕府の紋を模したその印は、黒三爪が将軍家の内部へ深く入り込んでいることを示していた。

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『茶太郎がゆく』
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