第172話 「大山崎の三重証文と、一つしかない油樽」
七宝信用帳の欠けた頁に記されていた地名――大山崎。
京と西国を結ぶ水陸の要であり、離宮八幡宮を中心とする油商いの町でもある。
灯明。
調理。
木材や道具の手入れ。
油が止まれば、京の夜と台所も止まる。
「黒三爪は、油を燃やすつもりなのかな」
茶太郎が尋ねると、弥七は首を振った。
「燃やすだけなら、証文はいらん。あいつらは、油が届かんように仕掛けとる」
茶太郎は宗次、日野小夜、弥七、日置雪とともに、淀川を下る船へ乗った。
五歳の茶太郎を危険な調べへ加えることに、志乃は最後まで反対した。
そのため茶太郎は、油蔵や捕り物へ近づかないこと、常に宗次の手が届く場所にいることを約束させられた。
茶丸と白灯は、一足先に川岸の猫たちから話を集めている。
大山崎へ着くと、油の匂いが鼻を満たした。
荷車には荏胡麻の袋が積まれ、搾油小屋からは木槌の音が響いている。
だが、油問屋の前では三組の男たちが言い争っていた。
「この十樽は下京の町組が前銭を払うた!」
「何を申す。幕府台所への納め物だ!」
「三好家の証文にも、同じ蔵印が押されておるぞ!」
三枚の証文。
日付も、油の量も、蔵の印も同じだった。
ただし買い手だけが違っている。
油問屋の主人は青ざめていた。
「わしは、一度しか証文を書いておらん!」
「では、残り二枚が偽物か」
役人が印を見比べる。
墨の濃さも紙質も、簡単には見分けられない。
小夜は三枚を並べたが、すぐには偽物と決めなかった。
「印が本物でも、取引が本物とは限りません」
「どういう意味?」
茶太郎が尋ねる。
「本物の印を誰かが持ち出し、三枚へ押した可能性があります」
三者とも前銭を渡している。
しかし蔵にある油は十樽だけ。
誰か一人へ渡せば、残る二者は油も銭も失う。
互いが相手を盗人と疑い始めていた。
「幕府が横取りしたのだ!」
「三好が力ずくで奪うつもりだろう!」
六角堂で結び直した縁が、再び軋む。
茶太郎は三枚の証文と、蔵に並ぶ十樽を見比べた。
「同じ鍋から、三つの膳へ全部は出せないよ」
男たちが茶太郎を見る。
「十人分しかない料理を、十人分ずつ三つの部屋に約束したら、二十人は食べられない」
「童にも分かることを、なぜ大人が見抜けなかった」
小夜が答える。
「証文一枚ずつを見れば、どれも正しく見えるからです。三枚を同じ場所へ集めて、初めて矛盾が見えた」
小夜は油問屋へ尋ねた。
「証文を書いた日は、誰が蔵印を預かっていましたか」
「手代の宗吉です。だが三日前から姿が見えん」
そのとき、白灯が屋根から飛び下りた。
口に、赤い紐の切れ端をくわえている。
「……ニャッ」
弥七が紐の匂いを確かめた。
「油と川泥。船着き場へ続いとるな」
追跡は弥七と日置雪へ任せ、茶太郎たちは油問屋に残った。
まず、十樽を誰にも渡さず、離宮八幡宮の立ち会いで封じる。
三枚の証文も小夜、幕府方、三好方が一枚ずつ写し、原本を共同で保管する。
「渡さなければ、京で灯明油が足りなくなるぞ」
下京の代表が詰め寄った。
「だから、今日必要な分だけ、三者で分けます」
茶太郎が言った。
「全部を誰か一人が持っていったら、残った人は相手を恨む。少なくても、同じように足りない方が、次の油が来るまで一緒に待てるよ」
公平に分ければ、誰も満足はしない。
それでも争いを始めるよりはよい。
油代は正式な調べが終わるまで、離宮八幡宮へ預けられることになった。
夕刻、弥七たちが手代の宗吉を連れて戻った。
宗吉は逃げたのではない。
川岸の小屋に縛られ、口を塞がれていたのだ。
「蔵印を奪われました……家族の借用状を見せられ、逆らえば家を取り上げると……」
宗吉の懐には、切り取られた七宝信用帳の一部が押し込まれていた。
そこには、宗吉の家が抱える借りと、病の母、嫁いだ妹の住まいまで記されている。
黒三爪は、力で蔵印を奪ったのではない。
信用帳に記された“守りたいもの”を人質にしたのだ。
小夜は宗吉を責めなかった。
だが、すぐに許しもしなかった。
「脅された時、誰にも相談しなかったことが、三枚の証文を生みました」
「話せば、家族まで疑われると思い……」
「一人で守ろうとしたため、さらに多くの者を危険へ巻き込んだのです」
茶太郎は宗吉の震える手を見つめた。
「迷い続けることも、その人の一部だよ。でも、怖い時に一人で決めなくていいようにしないと」
小夜は新しい帳面を開いた。
借りの額だけでなく、脅しを受けたことを申告できる欄を作る。
相談した者をすぐ罪人扱いしない。
証文と蔵印を一人だけに預けない。
新たな取引では、売り手、買い手、立会人の三者が同じ内容を持つ。
《三つ合わせの証文》が、ここから始まった。
夜。
十樽の油を改めていると、茶太郎は一樽だけ軽いことに気づいた。
「これ、音が違う」
宗次が蓋を開ける。
中に油はなく、濡れた石と一枚の木札が入っていた。
木札には、こう刻まれていた。
――油の次は、麹。
同じ頃、京では何者かが米麹を高値で買い集めていた。
水輪甘酒を作るための麹が、市から急速に消え始めていた。




